第1章

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 その不愉快な気持ちを、以前の僕ならそのまま投げたに違いない。  でも、今は違う。 「千賀子、聞いてもいいか?」  千賀子は考えている、というか、言うか言わないか迷っているようだ。  僕は千賀子が言えば聞くし、言わなければそっとしておくつもりだった。  ふたりはしばらくの間沈黙したが、やがて千賀子はその重い口を開き始めた。 「中学2年の時だったんだ。私が神戸に行ったの」 「ああ、それは聞いたよ」 「でね、周りはみんな関西なまりだし、東京から来たってことでちょっとクラスの中で浮いた存在だったんだ」  ありがちな話だと思った。僕も留年生ってことでかなり浮いていたし。 「そんな時にはじめから親切にしてくれたのが、淳だったんだよ」  さっきの千賀子の独り言に出てきた名前だ。 「淳は親切だし、優しいし、いつの間にか私も彼のこと好きになってつきあい始めたんだ。バイクもね、彼が好きだったの。免許取り立ての頃は本当にヘタでね、何回もエンストしたよ」  僕には、ふたりの楽しげなシーンが目の前に浮かぶように想像できた。千賀子は僕に背を向けてしゃがんだ。 「北海道もね、淳の憧れだったんだ」  何故そこが過去形になるのだろう。ちょっとした疑問が僕の頭をよぎった。 「テレビドラマ見て感動して、主人公は俺と同じ名前なんだよって言って、行ってみたいなあって口癖だったの・・・ここも、北海道のこと知りたくてバイク雑誌で文通仲間見つけて、とっておきのいいとこだって教えてもらったところなの」 「淳は言ってたの。高校を出たら必ずおまえをここに連れていくからなって。文通仲間の人から送ってもらった写真を見ながら、こっちがおまえの木であっちが俺の木だって・・・」  僕にはある予感があった。迷ったけれど、そこが分からないと本質が見えないので思い切って聞いた。 「千賀子、淳君はどうした?もし差し支えないなら教えて?」  千賀子は沈黙した。  しばらくたってやや涙声でポツリと言った。 「彼はね、もういないの」  僕の予感は当たっていた。でも、しかし、僕らのこの年齢で亡くなるなんてこと、そんなこと、誰だって受け入れられるものじゃない。  千賀子はしゃがんだまま小さな声で言った。 「いきなりだったんだよ。何のお別れも言ってなかったんだよ」  千賀子の頬を大粒の涙が流れ落ちた。
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