日本神道の神代系譜

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伊勢神宮は日本国の神社の中心でございます。一説整合性を以って観ると、大祓詞に記載の通り、吾が国は大倭日高見国(岩手県)に始まり、飛騨高山(岐阜県)の耶馬台国(耶馬台国発祥は石川県)と、伊弉諾尊、伊弉冉尊の御代に結ばれ豊葦原瑞穂国(耶馬台国、奈良県)に遷都されました。その子ども達、大日留女牟千神と月読尊と那古素戔嗚尊はそれぞれ、耶馬台国近畿、耶馬四国東北、耶馬三国出雲をお治めになられました。那古素戔嗚尊は出雲を娘婿の大国主尊に預けて、耶馬台国に帰り、饒速日大王(最後の天照大神)を教育なされました。饒速日大王が耶馬壱国九州の神々と話し合いを付けた後、邇邇芸尊が五伴緒と天孫降臨し、大山祇神の娘葦津姫と結婚し、鵜草葺不合尊が産まれ、そして佐怒彦尊(後の神武天皇)が産まれます。神武天皇は気候変化のため、奠都を行い、饒速日大王の孫娘伊須気余理姫を妻として耶馬台国の王となりました。神武天皇より3代後、第4代懿徳天皇が耶馬四国の王となり、第8代孝元天皇の御代に耶馬台国の三輪山に戻り、第9代開化天皇が三輪山に立君。第10代崇神天皇の御代に耶馬台国に病が流行したのを救済する為に、耶馬壱国九州の大分宇佐は宗像家より日巫女(卑弥呼)が千人の鉾徒を連れて上京し、病院をお造りになられ、九州の優れた医術によって、病を鎮めました。そして、天体観測所(後の大和神社)をお造りになられ、紡績工場をお造りになられました。日巫女の持ってきた鏡は、先祖伝来の鏡であり、日巫女崩御後は、三輪山の檜原に奉っていましたが、耶馬台国は出雲に相撲で負けたため、耶馬台国が出雲の政治となるので、神宝を垂仁天皇の娘倭姫が御苦労をなされて忍びながら辿り着いた地が、志摩郡磯部町千田(御神田)で、伊雑宮を造り、時は流れて聖徳太子豊聡耳命がその近くに無量山千田寺を造り、後にその情報を知った持統天皇が伊勢神宮内宮を建設致しました。日巫女が崩御なされたのが1783年前あたりですから、その後25年位の放浪の旅を考えると、伊雑宮が建てられたのは1758年ほど前、西暦273年と推定できます。
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