▽エピソードその三▽

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この日は一度だけ延長したものの、この時間の間に彼女の指名客はボクともう一人以外に増えることはなかった。 そして彼女がボクのシートに戻ってくるたびに、 「アッチのお客さんに酷いことされてない?嫌なことは嫌って言わないとダメだよ。」 って彼女の心配をしている。彼女がボクの席を離れる度にドキドキしてしまうのだから仕方がない。 でも、戻ってくる度に、「大丈夫だよ。」って答えてくれるので、やっと安心するという筋書きである。おおよそこれ以外のト書きとなることは今のところなさそうだが、心配であることは間違いない。 「アッくんに言っておかなきゃいけない事があるの。」 急に神妙な顔をするから何事かと思って、彼女が話し始めるのを待っていると。 「そろそろ卒業論文をまとめなきゃいけないの。だから月曜日の出勤はしばらく止めて、金曜日と日曜日だけになるから。」 「なんだそんなことか。そりゃ、アルバイトよりも卒論の方が大事だから、そっちを優先させなきゃね。ボクは金曜日でも日曜日でもキミに会いに来るさ。」 「うふふ。ありがとう。待ってるわね。」 そう言ってニッコリと微笑んでくれる。 やがてボクのセットが終了する時間がやってくる。ボクの方が入店する時間が早かったので、終了時間のコールがかかるのもボクの方が早い。 「アッくん、もう時間ですって言ってるけどどうする?」 「今日は帰るよ。また来るから。」 そういい終わると同時にキスをしてくれる。 そして、「また来てね。待ってるわ。」の言葉でボクの至極の時間が終了するのである。 ドアまで見送りに来てくれる彼女はニッコリと微笑みながらボクに手を振ってくれる。 その笑顔がたまらなく可愛いと思った。 寒空に浮かぶ月は少し膨らみかけているように見えた。その様子はなんだかボクを応援してくれるかのようだった。 その周りで瞬いている星たちは、どんなふうにボクを見ていたのだろう。 ボクの気持ちはドンドンおかしくなっていった。 出会ったときよりも、確実に恋に落ちている。そんな感じだった。 彼女のことを想うと胸が苦しくなる。こんな感情は久しぶりだった。
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