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彼女はそう言って一足先に店を出た。
確かにこれでは出勤前の食事を奢らされているだけの風景に見えるかもしれない。しかし、ボクにとっては彼女との親密なプライベートの空間を演出できる大切な時間なのである。
テーブルに残されたボクは、彼女と奏でていた戯曲の余韻に浸りながら、『ピンクシャドウ』オープニングタイムまでの時間を過ごすのである。
少し酔いを醒ますためにコーヒーをオーダーし、ケータイを眺める。
マナーモードにしてあったのだが、さっきからブルブルと震えているのが五月蝿かった。
ほら、やっぱりヒデからのメールだった。
―今日は頑張れよ。―とか、―もう近くにいるのか。―など、都合六件もの着信が入っていた。いやはやもうウンザリだ。
三つ目のメールからは開くこともなくポッケにしまいこんだ。
やがて時計の針が十八時に近づく。そしてボクはパスタの店を出て、『ピンクシャドウ』へ向かうのである。
店の衣装に着替えただろうミウに会いに。
今日も時間前についたボクは、見覚えのあるいつもの待合室に案内される。
やはりボク以外にも何人かが同じように開店時間を待ちわびていた。
そして開店時間とともに順次フロアへと案内されるのである。
オープニングのBGMが鳴り響く中、ボクは一番手前の通路にあるシートへ案内された。
これは、ボクがミウを指名する今日最初の客であることを意味する。
「うふふ。」
含むような笑みを浮かべながらミウがやってきた。
「お店の人にバレてない?」
「大丈夫よ。誰にも見つからなければ、自分から報告したりしないもん。」
「今はボクの他にお客さんいる?」
「ううん、いない。アッくんだけ。」
彼女はそっとボクに体を預けて目を瞑る。
先ほどはお預けになっていた唇への挨拶を施すと、いつもの甘い吐息が聞こえてくる。
そして彼女の芳香をも満喫していくのである。
今年初めての抱擁。忘れていたぬくもりと芳香をしっかりと感じ取った。
「休みの間、ずっと卒論を書いてたの?」
「そんなにずーっとじゃない。でも私、文書を書くの苦手だから時間がかかるの。だから、あんまり遊びに行ってない。お友達と初詣に行ったぐらい。」
「ボクもそんなに作文は得意じゃないけど、手伝ってあげられたらいいのにな。」
「アッくんは、目を瞑ってもキーボード打てるんだっけ?」
「うん。訓練したからね。ブラインドタッチだけはできるよ。」
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