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帰りたくないなとアズは思った。
アズは電車のドアの開く音が、ほっと一息吐いたみたいで好きだ。けれど今日だけはその音が不気味に聞こえた。まるで吸い込まれるように終電に飲み込まれるのが怖かった。
さっさと乗車したエータの後ろで、自然とアズは足を止めた。どうしてか一歩が出なかった。
帰るのが惜しい。
帰りたくない。
そんな我儘な自分に戸惑った。
自問自答をアズはぐるぐる繰り返した。
気づいたエータは慌てて振り返り、手を差し出した。
やっと実現した再会に、エータだって嬉しくて仕方がなく、帰るのが惜しい。
しかし彼は決めていた。
もう出来ることなら、これからはずっとそばに居よう。アズがそれを良しとくれるならば。
不思議なもので自然と手を取ったアズは、やっぱりいつものように電車に吸い込まれ、先ほど感じた妙な恐怖などすぐに一掃された。
エータは昔から背が高かった。手が大きかった。
大きな手。男の人の手。
差し出された手を取った瞬間、ぎゅっと握り返された。その手は電車が動き出しても解かれることはなかった。
どきどき踊る胸の内と、それ以上にアズは安心感を抱いて電車に揺れた。
ふたりは多くは話さない。そこが丁度良い温度だった。
楽しく賑やかにおしゃべりするのは、もちろんアズも嫌いではない。けれど同時に疲労感も激しい。
ゆったりとした時間が一番心地良い。しゃべりたいことがあれば、どちらともなくしゃべりだす。そのままおしゃべりが止まらないこともある。
そこにはふたりだけの心地良いリズムがあった。その緩やかさが気持ち良いのだ。
惜しむ気持ちとは裏腹に、アズはこの心地良いリズムにゆったりと身を委ねた。がたごとと揺れる電車は自分たちの好むリズムに限りなく近い。
しかし、ゆっくりと流れていた温かい時間は最寄り駅への到着、ではなく、ケータイのバイブレーションによって壊された。
アズはメールの内容を確認することなく表情を曇らせた。
エータはそれを見逃さなかった。見逃すはずがない。彼はずっとアズのことを見つめていたのだ。
アズはその後、エータから飛び出した言葉に驚いた。
「しつこい奴には嘘でもずばっと言わないとわからないよ」
今自分が困らされている状況をなに一つ彼に話していない。一瞬、エータはエスパー?! と間抜けな思考が走った。
そのままそれは口に出てしまっていたようで、エータが楽しそうだ。
すると、エータは素知らぬ顔でこう言ってのけた。
「そう。俺はアズのことなら何でもお見通しなんだ」
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