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「名前……なんていうんですか」  家の近所の中華料理屋のカウンターで、新庄宗一はそう口を開いた。注文したレバニラ炒めが、彼の前に到着したタイミングで。  私が誘って、この中華料理屋に私達は座っている。  瓶ビールを頼んで宗一に注いだけれど、口にしようとはしなかった。「話をしたい」と言ったくせにずっと口をつぐんだままだった宗一がやっとこぼした言葉がそれだったから、私には一瞬意味が分からなかった。「レバニラよ」と教えてあげようとして、私自身の名を訊かれているのだと気付く。 「私? ……高橋です。高橋翠(たかはしみどり)」  まだ少し早いからか、店内には誰もいない。カウンターの私達の位置からはテレビがよく見える。今は夕方のニュースを映し出しているそれに視線だけを合わせて、作業着のままの宗一は「……みどり。翠。翠……」と何遍も、呟く。  この店は大衆的で、夕方になれば宗一のような肉体労働者が油ものを肴に酒を酌み交わすような店だ。ここならもし近所の誰かに見つかったとしても、不貞だ不倫だと騒ぎ立てられることはないだろう。そう踏んで、私はここに宗一を誘った。  弘樹との約束を守るために。弘樹は「おにいちゃんのママになってあげてね」と私に言った。 「ぼくがいない間おにいちゃんのママになってあげてね。おにいちゃん、きっとひとりぼっちでだれも助けてくれないんだよ。かわいそうだから、ちょっとの間ぼくのママをかしてあげるんだ」  子供らしい弘樹の優しさ。今その弘樹は私の傍を離れ、北の地のあの女の手の中にいる。  両親が死んだ時、「あの程度の平屋じゃ相続税の方が高くつくんじゃない?」と言った。  その平屋に引っ越すと決めた時に「あんな暗い家じゃ弘樹が神経衰弱みたいな子供に育ってしまうわ」と言った。  あの女に優しく真っ直ぐな弘樹の素晴らしさを見せつけてやりたかった。だから北海道行きに賛成したのに、今になってこんな空虚感に苛まれるだなんて……。  「……翠、さん」  片手に箸を持ったまま、心を遠くに失くしていた私に斜め上から声がかかる。やけに注意深いような、確認するような口調に私はそちらを見上げる。
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