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樹人は親の不在を良いことに、気紛れに学校をさぼる。
咽喉が痛いと言っていたが、熱まではなかった。
坂崎が節の目立たない左手の長い指を思案するように顎に当てる。薬指に指輪はない。それもまた、坂埼が人気のある一因だった。教師と生徒の恋愛はご法度だが、禁じられているゆえに燃えるものもあるのだろう。
「そうか。このプリントを渡しておいてくれ。それから、早く良くなるようにと」
「解りました。ありがとうございます」
似たような遣り取りはこれまでにも繰り返された。坂崎は樹人のずるに気付いているが、積極的に咎める積りもないようだった。プリントを受け取った瑠璃が頭を下げて踵を返そうとした時、間隙を突くように坂崎の手が瑠璃の流した髪を撫でた。それは僅か一瞬の出来事で、瑠璃が髪を押さえて振り向いた時には、もう坂崎の後ろ姿しか見えなかった。後ろ姿が橙めいた光を浴びて、挙動に不似合な神秘性を感じさせた。
リビングから樹人は庭の楠を見ていた。桜の花が盛りである時分だが、この家の庭に桜はなく、あるのは楠と藤棚だった。楠の若い新緑を見るともなしに見ながら、時折、樹人は咳き込む。
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