977人が本棚に入れています
本棚に追加
/9ページ
第2話 噂と自傷行為
初めはよく分からない出所から立った噂なのだと、香彩は思っていた。
城下街である紅麗には仕事や使いで行くこともある上に、竜紅人は司冠という任に就いている。
司冠とは、法令を司り、契約の証人の管理等を司どる大司冠の補佐官だ。
大司冠の仕事の中には麗国内の商法、店舗の契約管理も含まれていて、大司冠、司冠の役職にあるものは月に一度、監査と称して、提出された商法内容に契約違反がないかどうかを調べるために、直接店舗に出向く。
それが丁度、遊楼の範囲だったことから、通いつめていると誤解されたのではないかと、そう思っていた。
噂が本当なのだと分かったのは、紅麗の大通りによく出る装飾品を取り扱う屋台で、偶然、竜紅人を見てしまったからだ。
人情味はあるが、粗野な部分も持ち合わせている彼にとって、装飾品とはあまり縁がないものだと香彩は思っていた。
それがどうだろう。
綺麗な花の飾りが付いた、髪結い用の綾紐を選ぶ彼の目は、真剣そのものだった。
あまりの直向きさに、見てはいけないものを見た様な気がした。香彩は竜紅人に声を掛けることはせず、だがどうしても気になって、隠れて様子を伺うことにしたのだ。
竜紅人の選んだものは、神桜の花弁をあしらった綾紐だった。
(──っ!)
綾紐を見ながら淡く笑む竜紅人に、心の臓を鷲掴みにされた様な、ずきんとした痛みが走る。
店主に綺麗に包んで貰ったそれを大事そうに持って、竜紅人は紅麗の大通りの人混みを、すり抜けるようにして歩いて行った。
跡なんて付けなければよかったと、今になって思う。
何故なら竜紅人は、大通りから少し外れた遊楼の集まる袋小路の奥へと入り、声掛けをしている店子と何やら話をしていたかと思うと、見世の中へ入ってしまったのだから。
足元から何かが、崩れて落ちていく様なあの感覚は、多分一生忘れはしないだろう。
綾紐を選んでいた時に見せていたあの笑みは、これから会う者を思い浮かべて見せた笑みに、違いなかった。
(……よりにもよって、神桜だなんて)
神桜は城の中庭にある藤色に近い色をした桜で、春の出会いと別れの季節と、秋の衰退と次の世代の為の季節に、咲き誇る。
神桜は月映えに彩られて咲く際に、甘い芳香を放つのだ。故に神桜を『神彩の香桜』と呼ぶ者もいる。
香彩の名前は、ここから付けられたのだ。
最初のコメントを投稿しよう!