第3話 神桜の綾紐

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 どんな言の葉が、その形の良い口唇から発せられてもいいように、感情に鍵を掛けて。 「……似合うなって思って、見てたんだ」  何かを思い出しているかのような、柔らかで優しい笑みを浮かべて、竜紅人(りゅこうと)はある装飾品を手に取った。    それは、神桜(しんおう)の……。 「──お前に」 「……え」  つきりと胸が痛んだ。  竜紅人(りゅこうと)香彩(かさい)の正面に立つと、神桜(しんおう)の装飾の施された綾紐を、高く結われた香彩(かさい)の綾紐に重ねるように括りつける。 (うわっ……!)  彼の腕の中にいる錯覚を覚えて、香彩(かさい)は思わずぎゅっと目を瞑った。 「……店主、これを貰おう」 「ちょ……」  冗談ではないと香彩(かさい)は思った。  あの場面を、竜紅人が想い人の為に装飾品を選んでいた、あの場面を見ていなければ、自分は素直に喜んでいただろう。  例え噂が本当だったとしても、ほんの少しだけでも自分を気にかけてくれているのだと、昏い喜びを感じていたに違いない。 (だけど……)  まさか同じ物など。  同じ物を贈られるなど。    今日この場で偶然にも竜紅人(りゅこうと)に会い、動揺したままの香彩(かさい)の心は、今にもはち切れそうだった。  それでも彼に会えて嬉しく感じてしまう心と、彼によって傷付いてしまう心がせめぎあって、静かに血を流している。  抉られた傷は治る前に、彼の行動や言動によって次々と傷付いていくから、一向に治る気配を見せないのだ。 「ほら……神桜の濃淡のある藍紫色が……お前の春宵の華のような藤色の髪に、よく似合ってる」  竜紅人(りゅこうと)のくしゃりとした笑顔に、香彩(かさい)は何も言えなくなった。    ああ、彼は何て残酷なのだろう。  彼が分からない。  向けられた笑顔が嬉しくて、だが同時に辛くて、香彩(かさい)はそっと目を逸らす。  諦めなくてはいけない。  否。  諦めた方が良いのだと、この時何故か唐突に香彩(かさい)は理解した。  このままだと自分自身が持たなくなる。  周りに迷惑をかける前に。 (……何より竜紅人に気付かれる前に)    この心を捨てなければならない。  だけどその前に。  思い出が欲しいと、思った。  この身に刻み込むような思い出を。  そうすれば、思い出だけを心の奥に秘めて、彼への心を捨てても歩んでいけると思ったのだ。     
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