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どんな言の葉が、その形の良い口唇から発せられてもいいように、感情に鍵を掛けて。
「……似合うなって思って、見てたんだ」
何かを思い出しているかのような、柔らかで優しい笑みを浮かべて、竜紅人はある装飾品を手に取った。
それは、神桜の……。
「──お前に」
「……え」
つきりと胸が痛んだ。
竜紅人は香彩の正面に立つと、神桜の装飾の施された綾紐を、高く結われた香彩の綾紐に重ねるように括りつける。
(うわっ……!)
彼の腕の中にいる錯覚を覚えて、香彩は思わずぎゅっと目を瞑った。
「……店主、これを貰おう」
「ちょ……」
冗談ではないと香彩は思った。
あの場面を、竜紅人が想い人の為に装飾品を選んでいた、あの場面を見ていなければ、自分は素直に喜んでいただろう。
例え噂が本当だったとしても、ほんの少しだけでも自分を気にかけてくれているのだと、昏い喜びを感じていたに違いない。
(だけど……)
まさか同じ物など。
同じ物を贈られるなど。
今日この場で偶然にも竜紅人に会い、動揺したままの香彩の心は、今にもはち切れそうだった。
それでも彼に会えて嬉しく感じてしまう心と、彼によって傷付いてしまう心がせめぎあって、静かに血を流している。
抉られた傷は治る前に、彼の行動や言動によって次々と傷付いていくから、一向に治る気配を見せないのだ。
「ほら……神桜の濃淡のある藍紫色が……お前の春宵の華のような藤色の髪に、よく似合ってる」
竜紅人のくしゃりとした笑顔に、香彩は何も言えなくなった。
ああ、彼は何て残酷なのだろう。
彼が分からない。
向けられた笑顔が嬉しくて、だが同時に辛くて、香彩はそっと目を逸らす。
諦めなくてはいけない。
否。
諦めた方が良いのだと、この時何故か唐突に香彩は理解した。
このままだと自分自身が持たなくなる。
周りに迷惑をかける前に。
(……何より竜紅人に気付かれる前に)
この心を捨てなければならない。
だけどその前に。
思い出が欲しいと、思った。
この身に刻み込むような思い出を。
そうすれば、思い出だけを心の奥に秘めて、彼への心を捨てても歩んでいけると思ったのだ。
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