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これをいとい捨てるとすれば、即ち佛の御命(生命世界の通信)を失いかねない。これに留まり生死に著すれば、これも佛の御命を失う。(生存の期間を身体のある時代に限定しない。佛の御命「魂、光子の通信」は身のある無しに関わらず存在するものと考えられる。)いとうこと無く、自分自身の中を通じて異次元より通信されているため、慕うこと(へつらうこと)の無い、このときはじめて佛のこころ(偉大なる何者かと自身が一つの状態)にいる。ただし、心を以て計ること莫れ、ことばを以て言うこと莫れ(だから通信相手を裁かない、決めつけない、判断しない。)。ただわが身をも心をも離ち忘れて、佛の家(集合無意識・潜在的宇宙科学)になげいれて、佛のかたより行われて、これに順い持て行く時、力をもいれず、心をも費やさずして、生死を離れ、佛となる。
佛となるに、いとやすき道あり、諸々の悪をつくらず、生死に著する心なく、一切衆生のために、哀れみ深くして、上を敬い下を憐み、萬を厭う心無く、願う心無くして、心に思うこと無く、憂うることなき、これを佛と言う。尚、佛(仏)という言葉に固執しない。佛の概念は集合意識の中で意味が通らなくなっていると考えられる。即ち繋がりが保たれない。死と佛教の思念上でのリンクを絶って本来の人間生命研究に至り、この方向性からアクセスすると繋がり易い。集合無意識に意識を合わせ、偉大なる何者かを敬いながら、かねてよりともにあることを喜び。自身が完全自由な存在であることを確認なさいますように。 ルールを守り、とらわれない。神とは生命世界創造の存在であり、佛とは、生命世界保護の存在であり、どちらが先かを問うのは戯論であるが、ここまで読んだ読者の為に、私たちが生活しているこの世界が表だとすると、裏がある。裏から人間生命は研究されている存在であり、言わば双六を上がる人間を待っている。(妙法蓮華経如来寿量品参照)意識、念、祈り、即ち光子等の働きによって、無と呼ばれる異次元と繋がっている。有象は即ち無象より起こるのである。心を制御する意識を大事に。佛戒に順って善いドライブ(人生)を。
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