境界線

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 彼によると、かつてその旧いビルは、このあたりでは唯一の高い建物であった。ビルの前には石畳の広場があり、天気のよい日には、散歩や待ち合わせの人々で賑わっていた。  人目につく高い建物の宿命として、そのビルも、すぐに不名誉なことで有名になった。ビルができて以来、ほんの数カ月で三人の投身自殺者がでたという。そして、その後も自殺者は後を経たず、わざわざ隣街から飛び()りるためにやってくる人もいたらしい。自殺者がでると、必ず警察がこの店にきて、バーテンにそのときの様子を聞いたそうだ。そしてその後数日は、事件の話を肴に一杯やりにくる連中で店は賑わった。  ある日、例によってその広場は黒山のひとだかりであった。そのビルのちょうど真ん中あたりの階のバルコニーに、若い女性が身を乗り出して泣きわめいていた。しばらくすると、見物人の間にどこからともなく様々な情報が飛び交うようになった。それによると、彼女はその部屋の住人であり、どうやら婚約者とけんかでもしたという。  警察や消防隊がやってきてエアーマットを敷き、隣の部屋に待機するころになると、彼女の男性遍歴や、いかに彼をものにしたかなどなど、品のないゴシップがまことしやかに語られた。そして彼女の容姿については、まあまあの、なかなかの、かなりの、ハリウッド女優並みのすごい美人、と、時間がたつにつれどんどんエスカレートしていった。噂が人を呼び、人が噂を呼んだ。昼過ぎには広場にはベーグルの屋台までが現れ、飛ぶように売れた。  そうこうしているうちに、警察が噂の婚約者を連れてきた。人々は絶世の美女をここまで追いつめた男を一目見ようと、騒然となった。しかし、現れたのは気の弱そうな冴えない小男にすぎなかった。彼は明らかに迷惑そうであり、自分はあの女となんか関係ない、と警官にぶつぶつ言っていた。そして、見物人が抱いていた美男美女の悲恋の幻影は、はらはらと崩れていった。
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