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「よく見るとまだうっすらと残ってますよ、死の境界線が」
バーテンは少し薄目がちにビルに目をやった。もう外はすっかり陽が落ちてしまい、私にはその話が本当なのかどうか確かめることはできなかった。
「それで、その後ふたりは幸せに暮らしました、というわけ?」
私は尋ねた。
「まさか!」
バーテンは首を振った。
「飛び下りなくなったものの、女はことあるごとに泣き叫んで男を困らせていたんです。男にとっては、せめてバルコニーで泣き叫んでくれたほうが、部屋の中よりうるさくなかったでしょうね。それで男は、泣き声から避難できるように、あの階の上、つまり境界線のひとつ上の階に、もうひと部屋借りたんです。いつしか、男はほとんどの時間を上の階でひとり過ごすようになっていました。そして、ある日、もういやになったんでしょうね、下の階から妻の泣きわめく声を聞きながら、ついに自殺したんですよ」
私はバーテンの話に水を差した。
「でも、たった一階高くなっただけで死ねるものなのかな?」
「とんでもない!」
バーテンは首を横に振った。
「そのビル始まって以来のガス自殺ですよ!」
もうすっかり夜になっていたが、他の客はいっこうに来る様子がなかった。バーテンは、話が全部終わるとためいきをついて、ぼんやりと窓の外に目をやった。
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