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アヤは出勤中の車を運転しながら、昨夜のことを思い出していた。
何か無難なリクエストをしておけば、リョウにあんな顔をさせずに済んだのだろう。大喜びでチョイスした物を、得意顔でプレゼントしてくれたのだろう。いつも過ぎてから気づく、もう何度目だ、と自責の想いでいっぱいだった。車内の灰皿がみるみるいっぱいになった。
何年経ってもまだなお、大切な人にあんな悲しそうな顔をさせてしまう自分は、やっぱり愛することが下手くそなんだと、しみじみと気持ちが沈んでゆくのを感じた。
消えかけたと思ったら、また新しいインクのしみができてしまった。
「ところで明日、お誕生日ですね」
交代の引き継ぎが終わり、副支配人の香山からそんなことを言われてアヤは面食らう。仕事中に、しかも誕生日について触れられるだなんて。リョウと付き合うまでは誰からも話題にされることすらなかったため、戸惑ってしまう。どうして知っているんだ、と一瞬思ったが、従業員の生年月日ぐらい知ろうと思えば簡単に知ることが出来る。
「え、ああ」
「明日は休暇とられてますから、今日のうちに。お誕生日おめでとうございます」
「……ありがとうございます」
祝われ慣れていないアヤにとっては不思議な気分だ。
他人の誕生を祝う習慣というものが、未だしっくりこない。百歩譲ってリョウに祝ってもらうのは納得ができるものの、それ以外の人からは、未だにやはり、慣れない。
「……香山さん、趣味はありますか?」
「はい?」
「趣味です」
「えっと……」
普段ビジネスライクな態度を崩さない支配人から私的な質問をされ、今度は香山が面食らう番となった。
「乗馬とか……」
あせあせ髪をしきりに耳を掛けながら香山は答えてくれたが、残念ながら全く参考にならない答えだな、とアヤは肩を落とした。
「その乗馬も、一人でやってもつまらなくなってしまいました」
「というと?」
「今は、彼女とするならどんなことでも楽しいなって思えるんです。反対に、以前は一人で楽しんでいたことも、今は彼女と一緒じゃなきゃなんだか物足りなく感じるようになってしまって」
「うん」
「だから……私の趣味は『彼女』なのかもしれませんね」
「……」
「あっ! やだ今すっごいくだらないこと言いましたよね! 全然質問の趣旨に添ってないですよね?! すみません!!」
「いや、とっても参考になったよ、ありがとう」
目の前に立ちこめていた暗雲がさっと晴れ渡ったような心持ちで、アヤは帰路につく。インクのしみは、キレイに消えていた。
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