第五章 恍惚と不安

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 促されるままに、応接室に通された。丁重にお断りをしたにもかかわらず、ジュースが 私の前に運ばれた。  陸くんのお母さんが、私の正面に腰を降ろす。 「天野さん。昨日は、陸が酷い態度を取ってごめんなさいね。折角、訪ねて来てもらった のに」 「いえ、そんな。私が突然、押しかけたのが悪いんです」 「ううん。そんな事ないの。あの子、人付き合いが苦手なの。心根は優しいんだけど」  確かにそうだ。陸くん、口では斜に構えたことを言うけれど、救助活動の最中は真摯な 態度で行動している。 「でもね。それには理由があるの」陸くんのお母さんが話を続ける。 「陸はね。記憶喪失なの」  記憶喪失? 陸くんが?  全く気がつかなかった。普段、接していて、何かが思い出せないそぶりなど、見せた事 がなかった。 「記憶喪失……ですか?」  聞き違いかもしれないと思い、改めて尋ねてみる。 「ええ、そう。でも、普通の記憶喪失とは違うから、見た目で分からないかもしれない」 「……」 「中一の春休みの事だった。何の前触れもなく、急に陸の記憶が無くなったの。それも、 お友達に関する記憶だけ」 「友達に関する記憶だけ……ですか?」 「ええ。子供の頃から、幼稚園、小学校、中学校までの、陸のお友達に関する記憶が全部 無くなったの。どんな友達がいたのか、どんな関わりを持ったのか、それらの記憶が全部 消えてしまった」 「……」 「授業の内容とか、学校行事については克明に覚えているのに、友達に関係する事だけが 思い出せない。そんな不思議な症状なの」 「……それは……、どうしてなんですか?」 「大勢の専門医に診て貰ったけれど、分からなかった。精神的な物が原因かも知れない。 そう言われた。思い出したくない心の傷があって、記憶を閉ざしたのではないか。そんな 説明だった」 「イジメ……ですか?」 「そうかも知れない。でも、真相は分からない。私も夫も、陸にたいして無関心だった訳 ではないのだけれど、陸の友達については、私達も良く覚えていないの。私達も記憶喪失 なのかもしれないわね」と陸のお母さんが自嘲気味に笑う。 「……」 「だから、あの子にとって、友達付き合いは初めての事ばかり、あなたには迷惑をかける 事があるかも知れないけれど、温かい目で見守っていて欲しい。どうか、お願いします」
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