同居人

1/1
前へ
/19ページ
次へ

同居人

 もうすぐ日付が変わる。ここまで夜更かししたのは初めてだ。雨はまだ止みそうになかった。想像以上の時間を要したタイピングで指の感覚が鈍い。仔細を知る姉に勧められ、ここを検索してみたが成る程、自分の体験は『こういうもの』に分類されるべき事なのかも知れない。  俺は隣県の大学に通っている三回生だ。実家を出て駅に近いアパートに住んでいるが、一人暮らしではない。いや、契約上は、一人暮らしだが……俺の部屋には居候がいるのだ。今も隣にいる。おそらく人間では、ないと思う。はっきりとは、解らないが。 今から記そうというのは、その居候の事である。  その正体が、一体何なのか、正確には解らないし、実を言うと俺は気にもしていない。しかし今一度、自分の身に起こっている事を、振り返ってみたくもある。幸い連休一日目だ、時間がある。試しに、一部始終を記してみる事とする。  彼女が俺の前に現れたのは、ずいぶん昔の事だ。もしかしたら、もっと以前から居たのかも知れないが……それは判らない。 幼い俺が、その存在を意識出来なかっただけで、ずっと居たのだという可能性はあるだろうが、覚えていないのだから仕方がない。余りにも彼女が当たり前に傍に居たものだから、逆にある日突然現れたという事の方が、確かに不自然なような気はする。このような存在に自然も何もあるまいが。  とにかく俺が【彼女】の姿に気付いたのは、十歳の時だった。その頃の父は再婚する前かつ転勤したばかりで忙しく、姉は母親に引き取られて、俺はいつも家に一人でいた。室内でただじっとしているのもつまらず、庭や玄関先に座り込んで通行人を眺めては、遅くまで父の帰りを待っていたものだ。  子供心に、寂しかったのだろう。そういう時に決まって――は現れた。夕暮れ時だ。すれ違う相手の顔さえ判らなくなる、誰そ彼刻というのだろうか、人と、そうでないものの区別がつかなくなる頃に、いつも現れる。  女だということは解っていた。癖のある黒髪を垂らした細い身体に浮き出た胸、長い手足に薄い色の着物を着ている。見えるのはそれだけだ。姿全体は薄ぼんやりとした靄に包まれ、衣服の形や模様は歪んでいて……そして、顔だ。  どんな顔をしているのか、全く見えない。不思議と、街灯が燈り始める時刻になって明かりをはっきりと浴びても、彼女の表情はどんな光にもあらわれないのだ。俺は確かに見ているのに、目の前のその顔面は、暗く塗り潰されたように闇に沈んでいる。  彼女は一切話さない、声を持っていないのかもしれない。黙って、いつの間にか、傍にいる。ベランダで。庭先で。玄関先で。近所の畦道で。夕暮れ時に一人で座り込む俺が顔を上げると、彼女は必ずそこにいて、静かに隣に並ぶ。  恐怖は全くなかった。顔の見えない、声もない、奇妙な幽霊(?)だというのに、私が子供だったからか、彼女に害意を感じなかったからだろうか、俺は何の疑念を抱くこともなく、彼女に懐いていた。  彼女は本当に優しく、俺を構ってくれたからだ。何処へ行くにもついて来て、かくれんぼなどの遊びに付き合ってくれたりした。頭を撫でてくれたりもした。手を繋いだこともある。補習で遅くなり、真っ暗な夜道を歩いて帰って来た時も、その彼女が手を引いて家まで連れて帰ってくれたのだ。  不思議なもので、家に帰り着いて玄関をくぐったり、両親が迎えに来てくれたりすると、その瞬間に彼女は消えてしまう。俺が別の誰かと、例え家族でも一緒にいると出て来ない。ひとりきりでいる時にだけ現れるのだ。だから、俺が彼女の話を誰かにしても、その姿を見せられるはずもなく、そんな変わった存在がいるのだという、曖昧模糊な内容に終始するのが常であった。  彼女が人間ではないのではないかと。俺が思いはじめたのは、確か中学校に入学した頃だった。十三だか十四だかの頃だったろうか、中学校の図書館で怪談の類の本を読んで影響されたのだろう。 反抗期だが思春期だがで、俺にしか姿を見せない彼女は俺にとり憑いているのだと、そう思ったのが始まりだった。彼女はその頃も、相変わらず時おり俺の目の前に現れては、ただ黙ってじっとそこにいるだけだった。  よくある怪奇体験のように、別段俺を害することもなければ話しかけても応えないという状態で、何しろ何年も傍にいるというのに、年を取る様子がない。姿が変わらないのだ。それまでは特に気にしなかった俺も流石に、物心がついて以降、正体の解らない彼女を、不気味に感じることもしばしばあった。  夜中に現れて恐ろしくなり、物を投げつけてしまったこともある。だが効かない。 よく聞くように、すり抜けるということはなかったが、何をぶつけられても、彼女は怒ることはなかった。黙って投げつけられた物を掴み、元の場所に戻す。その姿を見て、私は、諫められているのだと自覚し、恥ずかしくなったものだ。  結局、彼女が何であるかという動かぬ確証はなかった。俺はそういった、霊に遭遇しそうな場所――霊場だとか、心霊スポットと呼ばれるような場所――を訪れたことは一度もなかったし、自分で霊感があるなどと思ったこともなかった。彼女の他に、何か人ならざるものを目にした経験というものも、皆無である。彼女だけなのだ。それが不思議で仕方がなかった。  ある時、試しに塩を撒こうとしたことはある。部屋で一人で勉強をしていた時に、いつものように現れて、じっとこちらを見ていた彼女に向かって、ふと思いつき、幽霊ならば塩を撒けば消えるだろう、どうだと話しかけてみたのだ。けれど、彼女は特に反応もなく、変わらず俺を見ている。何となく、これは効果がなさそうだと思ってやめた。  実際に撒いてみても良かったが、部屋の中に撒くと掃除が面倒だし当時一緒に住んでいた姉に怒られると思っているうちに、機会は訪れなかった。 高校生になる頃、次に私が疑ったのは、彼女が果たして本当にここに存在しているのかどうかということそのものである。幽霊にしろ何にしろ、他者に見えないだけで、確かにそこに存在しているというのならそれでもいい。  だが、もしかしたら、まず存在そのものが幻であり、例えば、俺が見ている――と思い込んでいるだけの、幻覚か幻影なのではないかということである。 幼い頃、一人きりで寂しかった時に現れたというのも、その疑惑に拍車をかける。つまり、幼い俺自身が作り出した、虚像の存在なのではないかと。  もちろんそれも、確かめるすべはない。 よしんばそれが事実だとして、ならばどうやって確かめるのか。何度か本当に、病院にでもかかってみた方がいいのだろうかと検討したが、下手にそういう系統の病院は行かない方がいいだろうし……何せ日常生活に何ら問題はないのだから。 結局、今まで行ったことは一度もない。  いろいろと考えているうちに、どうでも良くなったのだ。そもそも、彼女の正体が何であれ、それを知ったところで俺は一体どうするのかというのか。幽霊ならば、祓うのか。幻覚であるなら、治療をすれば、見えなくさせてしまうのか。どちらも、よくよく考えれば、絶対に必要なことだとは思えない。まず問題は、果たして俺は、彼女をどうしたいのかということなのである。   会いたくないのか。消したいのか。見たくないのか。恐れているのか。答えは【否】である。消したくもないし見たくないわけでもないし、恐れてもいない。それが事実だ。そうしなければならない理由がない。害がないのである。彼女は、大体において、私が一人きりでいる時にのみ現れる。極稀に、他者がいても現れることもあるが、見えるのは俺にだけだ。  例えばよく聞く幽霊話のように、先祖が犯した因果譚もなく、金縛りや音を出したりすることもない。もしかしたら心霊写真が撮れるかと思って、携帯やデジカメで写真を撮ってみたこともあるが映らなかった。ふっと現れてただ私を見ているだけで、気まぐれに手を伸ばせば触れることもあるが、それは俺の生活サイクルを乱すわけではない。  子供の頃に手を繋いだのと同じ感覚だ。手を握ると、冷たい。……いや、体温があるのかどうか、実は生温いような気もするし、解らない。手触りは案外いい、すべすべして、肉厚も悪くない。決して、彼女は手に力を込めはしない。ゆるゆると、確かめるように俺の手を握り返すだけだ。  正直な話、俺にとって、彼女の存在に、不都合は何もない。むしろ、今では、姿が見えないと少し不安なような気にもなる。友人達は、危険なのではないかと心配してくれたりもするが、それは正体が解らないからで、そもそも彼女が俺に何か害を及ぼすことはないのだ。俺にとっては彼女の正体など、どうでも良かった。  正体云々で思い出したことがある。それは彼女の正体と関わりがあるのかどうかは解らないが、以前に一度、よく似た女性の出て来る夢を見たことがある。  どこか似ているというだけで、所詮は夢だ。あまり真剣に考えてもいないのだが――女性が、私の前で泣く夢だった。 俺は意識はあるのだが躰が動かない。畳の臭いがして、周りが白い。蒲団に寝かされて居るらしいその傍で、一人の若い女性が座り込んで、泣いている。声を殺して。たぶん、何かを悲しんでいるのだと思った。  推察でしかないが、俺は死ぬか瀕死になっていて、女はそれを悲しんでいるのだ。だって、女性は本当に、悲しそうに泣いていた。 俺はそれを夢だと自覚していた。だからと言って、自分の傍でめそめそされるのは居心地が良くない。  大丈夫だから泣くのはやめろとか何とか、せめて声をかけるべきかと思うのだが、口も躰も動かないし、それにあまりにも女性が悲しそうなので、軽軽しく何か言うことが出来ずに、黙っている。 女性の啜り泣きだけが、ずっと響いている。  俺はふと、女性の名前を知っているような気もしたが、どうせ夢だと思って深く考えなかった。そういう夢だ。だからどうということではない。  去年の春、大学に進学するにあたって、実のところ俺が一番憂慮したのは、彼女が俺について来てくれるのかどうかということだった。もし、彼女が実家に居着いた存在で、遠くにまでは行けないのだとしたら、俺が引っ越せば彼女とは離れることになる。私は本当に一人になるということである。  初めて家を出て一人で暮らすのだ、流石に孤独や不安もあったので、得体の知れないとはいえずっと傍にいたものがいなくなるというのは、やはり寂しさを感じずにはいられなかった。結果から言えば、それは杞憂だった。  冒頭でも記した通り、彼女はまだ俺の傍にいて、概ね毎日、現れる。部屋にいない時の方が少ないだろう。ほとんど同居生活である。家事を代行してくれるわけでもなければ家賃を折半しているわけでもないので、同居というより居候されている形ではあるのだが。餌代がいらないところがペットと一線を引いている。 生物ではないようなのだから。  ただそこにいるだけというのは変わらないが……昔と違うのは――彼女の姿が最近、少しずつ明瞭になってきている気がするという事だ。以前見た夢の影響なのか、今まではっきりとは見えていなかった服装が少しずつ明瞭としてきて、何だかあの夢で倒れていた時に目の端にうっすらと見えた服装に、似てきている気がする。  夢の内容に影響されて、イメージが固まってくるというのは、やはり俺の思い込みを示しているのだろうか。だが、今までうっすらとしか見えていなかった彼女の姿がはっきりと見えてくるのは、少し楽しい事ではある。一体どんな顔をしているのか、早く見てみたい。  何となく俺より年上だろうと思っていたが、私はもう成人していて、年を取らないらしい彼女とは、もしかしたら、そろそろ同じ程度の年齢に達しているのかも知れない。もう数年したら、追い越すだろうか。――やがて、俺の方が先に年老いて死んでいく事になるのだろうか。  そうなったらきっと、彼女は泣くのだろう。あの夢と同じく――横たわった俺の傍に座り込んで、静かに涙を流すだろう。そんな気がする。 ……いや、俺自身が、そうして欲しいのかも知れない。俺の死を、彼女に悲しんで欲しい。惜しんで欲しい。彼女がこうしてずっと傍にいるのは、意味のないことではなく、私への好意的な感情のせいであると、そう確かめたいのだ。  ――ずいぶん取り留めもない事をだらだらと書いたものだ。時間はそう経っていないようだ。雨は止んだが風が強い。ふと、彼女がパソコンの画面を覗き込んできた。 文字が読めるのかどうか知らないが、たぶん読めているのだろう。彼女の胸元には、ノンブランドのピンクゴールドのハート型のネックレスが光っている。  幽霊は物を身につけられるのかと疑問に思った時に渡した物だ。薄暗く見えにくい表情が、少し微笑んでいるようにも感じる。最近は、その少し厚めの唇が、微かに動くのも見えるようになってきた。 てっきり彼女は言葉を持たないのだと思っていたが、気付かなかっただけで声は聞こえなくとも、ずっと話しかけてくれていたのだろうか。  その言葉が、いつか解る日が来るのかも知れない。いや、声ももしかしたら聞こえてくるのかも知れない。  今はまだ大学生だが、やがて卒業し、就職やそれに伴う引っ越しなどでもっと環境が変わっても、彼女はそのままずっと、こうして傍にいればいいと思っている。  そうして自分が逝く時には、あの夢のように泣いて欲しい。置き去りにする事を前提とした願いだ。置いてきぼりほど酷なものなく、浅ましいかも知れないが、おそらくずっと昔から、それを望んでいたのだと思う。  文章は全て投稿し終えた。この記録を読んだ相手にどう思われようと、真偽を疑われようと構わない。ただ俺自身が、自分の心を確かめたかった。それだけのことだ。  今、彼女が隣で笑った気がする。くすくすと、鈴の転がすような声が聞こえた。気のせいかもしれない。それでもいい。人生というのは、何が飛び出すか解らないながらも、まっすぐ一本の道しか存在しない道である。進む時も立ち止まる時も振り返る時も、手を握ると握り返してくる彼女がいる。それだけでいい。
/19ページ

最初のコメントを投稿しよう!

1人が本棚に入れています
本棚に追加