3.廊下

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3.廊下

「これが私が初めてこの会社の創業者である『信さん』と出会った日の思い出です」 船越の祝辞は終わりに近づいていた。 テレビの映像で成人式の荒れた様子を嫌というほど見せられていた船越だったが、さすがにこんなに大きな会社の新入社員となる若者たちは終始しっかりと聴いてくれている。 「この祝辞の打診を頂いた時には私のような者で良いのかお断りしようかと思っておりました。正直、この年になってこないな仰山(ぎょうさん)の若者の前で大恥をかきたくはありませんからね」 会場から船越を励ますように笑いが起こった。 「ただ信さんなら、せっかくこんな機会が来たんやったらやってみたら良ろしいがな、って言いはると思いお受けすることにしました。私がもし信さんや皆さんのお役に立てるのだとすれば、直接この耳で聞いた信さんの伝言をみなさんにお伝えすることだと思います。こんな私のような者でも思い切ってこの祝辞をやってみたのですから、未来のある優秀なみなさんが、もし何か新しいことをやりたいと思うことがあるのなら、この会社を創った信さんの『やってみなはれ』という想いを勇気に変えてみるのが良いのではないでしょうか」 祝辞をそのように結ぶと、船越は舞台と控室を結ぶ長い廊下を安堵した表情で歩いていった。 あの幼き日にそろばん通いをせず、信さんと二人で歩いた夕暮れの偶然に出会わなければ若者たちに信さんの想いを直接伝える機会は訪れなかったであろう。 学校を出たばかりの若者を表舞台へと導く廊下の役割を、自分がもし果たせたのだとしたら、船越のそろばん通いは思いもよらぬ形で役に立ったということである。 船越は「やってみなはれ」という信さんの言葉を改めて思い出しながら長い廊下を振り返った。 image=513342025.jpg
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