耳環と片腕~万葉浪漫譚~

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                   *  白鳳(はくほう)時代(645~710)。  中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)(後の天智天皇(てんじてんのう))が蘇我蝦夷(そがのえみし)入鹿(いるか)父子を討った乙巳(きのとみの)乱(大化の改新)は、政権の表舞台を塗り替えた。  栄耀栄華を誇った蘇我一族は645年、完膚無きまでに叩きのめされ、傀儡(かいらい)天皇(すめらみこと)を戴き、世と言う玉は今や中大兄皇子と中臣鎌足(なかとみのかまたり)の手中にある。  そんな世にも、貴種に変り種はいるもので。  大権力者・中大兄皇子の第七皇子として生まれながら、志貴皇子は政権というものに凡そ興味が無かった。  彼の心を捉えるのは、笹の葉を揺らす風であり。  皓々とではなく、淡く柔らかに照る月であり。  楚々と(こうべ)を垂れた撫子の花であった。  第七皇子という立場の気軽さ、幸いにして恵まれた歌の才もあり、父にも臣にもとやかく彼の素行を咎める者は無く、志貴皇子は伸びやかに生きていた。  取り立てて執着する物と言えば、百済(くだら)の職人から献上された、金の環に、翡翠(ひすい)の勾玉が下がった装飾品くらいだ。彼の白い左の耳朶(じだ)には常にそれが光っていた。  春の息吹が左耳の穴から体内に吹き込まれるようで、好ましい。  本当は一対を献上されたのだが、なぜだか片方だけが良いと思ったのだ。もう一粒のほうは、采女(うねめ)(宮中の女官)に無作為に与えてしまった。  長閑さと伸びやかさがまだ許される時代だった。  やがて来る嵐も知らず。
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