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大阪の一等地、うめきたにある割烹平井の料理長、平井清二は店仕舞いした9月のある日、バックに下がろうとした時に廊下で背後から呼び止められ、副料理長の澤本紘一から青天の霹靂如く話を切り出された。
「料理長、実は今年一杯でお店の方を辞めさせて頂きたいと思っております。独立の夢を叶えたいと思っているのです」
平井はこれまでも弟子達の独立を認めて来たし、快くお店から送り出して来た。
だが、澤本だけは別だった。
澤本は現在29歳。
そう兄弟子達を差し置いて、副料理長に抜擢したのが澤本28歳の時。
澤本の研ぎ澄まされた味覚、そして料理のセンス共に、この道40年、現在58歳の平井をもってしても、端倪すべからざる底知れない実力の持ち主で、平井は将来、割烹平井の料理長の大任を務める事が出来るのは、澤本を差し置いて他に無しと認めていた実力者であった。
そう今迄、澤本は独立の一言をも平井の前では漏らす事はなく、その青雲の志を胸に秘かに抱いていたのだろう、それを今日、平井に打ち明けたと言う訳であった。
そして、平井には澤本の料理のセンスを利用したある計画があった。
モシュランガイドと呼ばれる格付けガイドブックで星を貰う事、それが平井の野望であった。
割烹平井は地元で名店の誉れが高かったがモシュランガイドで星はおろか、掲載さえもままならない日本料理店であった。
覆面調査員は訪れているはずだったが、幾ら鶴首してもガイドに掲載される事は無かった。
しかし、澤本を副料理長に抜擢し、彼にレシピの殆どを一任させた所、その年のガイドブックに星の獲得はままならなかったものの、初めてガイドに店名が掲載された時の喜びは今でも忘れる事が出来なかった。
そして今年こそ念願の星の獲得を目指していた矢先の澤本の退職願い。
恐らく澤本を手離してしまえば、掲載すらもいつの日にか削除され、星の獲得など夢のまた夢と潰えるだろう。
だからこそ平井は澤本だけは手放したくなかったのである。
平井は料理長の威厳を込め、大きく構えて答えた。
「まあ、澤本がおらんようになってもウチは大丈夫やけど、まだちょっと独立は早いんとちゃうか。もっとここで腕を磨いてから独立しても遅うないんとちゃうか?」
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