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そうここで澤本に縋り付くなど(もっ)ての外、平井の沽券に関わる問題であったし、澤本に内兜を見透かされたくなかったと言うのもあった。 しかし澤本の信念は固く、頭を深々と下げるときっぱりとした口調で平井の勧めを退けた。 「料理長には11年間本当にお世話になりました。しかし、これだけは譲る事が出来ないのです。料理長、どうか私の独立を認めて下さい」 ここまで言われると平井としては認めざるを得なかった。 平井は断腸の思いで澤本の肩にガックリと手を置くと言った。 「分かった。独立は認めよう。一生懸命、頑張るんやで」 澤本は頭を上げ、平井の目を力強く見詰めると、今一度、深々と頭を下げ、「料理長、ありがとうございます」と謝意を表すのであった。 それから3カ月、澤本は副料理長としての役目を精一杯務め終え、12月の初めに割烹平井を退職したのであった。 それから1年後、澤本の日本料理店、割烹澤本をオープンする事が出来ましたと澤本から電話で連絡が入った。場所は大阪中央区城見であった。 平井は通り一遍の祝福を伝えると、時間があれば開店祝いに行くと伝え早々と電話を切ってしまった。 そう、澤本が去ってからモシュランガイドブックの掲載が削除され、料理人としての矜持が傷付けられた平井は再び掲載されるよう、日夜新たなレシピ開発に余念が無かったのである。 そして、遂に開店祝いにも向かわず、2年が経った時の事であった。 早朝、板場で準備を始めようとした時の事であった。 新たな副料理長枝野が新発売された今年度のモシュランガイドブックを平井に差し出すと言った。 「料理長、澤本さんのお店、星2つ獲得していますよ」 平井は震える手でモシュランガイドブックのページを捲って行くと、確かに割烹澤本は星を2つ獲得していたのであった。 平井はギュと胃を抑え付けられる様な煩悶を味わった。 もし澤本を手離していなければ今頃割烹平井こそモシュラン2つ星を獲得出来ていたはずなのだ。
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