第一章 岡崎という男

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第一章 岡崎という男

 その日、タイムカードを押して会社を出た私は、繁華街をぶらついたあと一軒の居酒屋に入って酒を呑んでいた。季節は七月に入ったばかりで、夜になって小雨が降りだした。  一人酒など珍しかったが、家に帰るまで街の蒸し暑さにたえられないと思ったのだ。生暖かい空気は湿り気を帯びてからだにまとわりつき、温度の上がらない安いサウナに閉じこめられているようだった。そんなとき冷えたビールを喉に流しこめば、うっとうしいことこの上ない梅雨も、爽快な気分を楽しむのに必要な季節に思えるのである。  ジョッキを飲み干し、おかわりを頼もうとした。すると、私の肩を叩く者がいる。振り返ると男が立っていた。ひどく痩せて年の頃は五十歳前後、湿気と汗でしわくちゃになったシャツを着て、顔は泥を塗ったように土気色をしていた。両目の下に不健康な隈が浮かび、くぼんだ眼窩の奥で目がぎょろぎょろ動いていた。最初その男が誰だかわからなかった私の表情は、どうやら相手を楽しませたらしい。男はニヤニヤしながら見ていた。ぽかんとしていたはずの私は、彼にはずいぶんまぬけに映ったにちがいない。     
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