明日が信じられない

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明日が信じられない

急に思い立って五年は住んでいる部屋の、物という物を捨て続けた。服でも棚でも、何もかもが不要なものに感じられて仕方がなかった。そして不要なものが部屋にあるということに不安さえ感じるのだった。そうして部屋はいつしか何とも異様な空間となっていた。部屋の奥には丸められている薄い布団と、なぜか捨てられずに畳んであるいくつかの段ボール箱。あとは中心に僅かな空間を残して、四方八方にあらゆる高さで本の塔が出来ていた。さらには積んだ本を食卓にしていて、それが崩れたときようやく気がついた。本が汚れてしまっては寄付できない。僕は咄嗟にそんなことを考えていたのだった。ただ物を捨てていたのではなかった。これは身辺整理だ。僕はずっと身辺整理をしていたのだ。 約束の店に少し遅れて現れた古い知人がやつれて見えた。彼女だけが笑顔の本当の意味を教えてくれる。僕はそんな気さえしていた。そういう笑いかたをする人だった。その彼女がやつれて見えた。政治に興味はなかったが、それだからきっとこの世は最低に違いないと思った。低賃金にサービス残業。彼女はアルバイトに過ぎないのに、明らかにそれ以上を求められていた。人手不足。それだけなら珍しくはない話だったが、彼女は彼女の誠実さによって誰よりも余計に搾取されている。少なくとも僕はそう思っていた。僕にはそう見えていた。それでもその仕事を彼女はもう長い間続けていた。 「相変わらずなの?」 僕を見つけると彼女は席に着くより先に言った。 「相変わらずだよ」 僕はぬるくなった水を飲んで答えた。まるで何かの合言葉のように、彼女は会うたび同じように尋ねるのだった。相変わらずなのかと。どちらが始めたことなのか、今となってはわからない。僕が相変わらずだとしか答えないからか、彼女が相変わらずかと聞くからなのか。とにかく結局は僕にはそうとしか答えようがなかったのだった。彼女に近況を聞かれても、僕は僕の生活に関する良い面の話しかしなかった。例えば読んでよかった学術書の話だとか、新しく覚えた言語に纏わる雑学だとか、そういう話しかしなかった。そして彼女があまりにもそれを面白そうに聞いてくれるので、僕は僕の生活の悪い面についての説明を上手く免れられていたのだった。そして彼女は僕が真実どう生計を立てているのかを知らない。
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