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「なんか、あったんですか?」
「ううん、私はないよ! ね、一郎くん。ネクタイ結ぶの、苦手?」
言われて、ばっと自分の胸元を見た。タイピンもつけていないネクタイは、結び目が不格好な上、曲がっている。みっともない姿をお姉さんに見せてしまった、と頭に、かっと血が昇った。
「……苦手、です……」
今更誤魔化しようもないので素直に告白すると、お姉さんは「最初だもんね」と笑いながら回覧板を脇の下に挟んだ。そうして、おれのネクタイの結び目に指をかけると、しゅる、と手際よく解いた。
ここを、こうして、後ろからこう通すの。お姉さんは解説しながら、あっという間にネクタイを結び直してくれた。綺麗な結び目のネクタイの上から、お姉さんの小さな手がおれの胸をぽんと叩く。
「練習あるのみだよ!」
「ありがとうございます。がんばります」
毎朝、結んでほしい。脳裏によぎった淡い煩悩を振り払って礼を言うと、
「じゃあ、そろそろ私、帰るね」
とお姉さんは回覧板をおれに渡した。クリップボードを受け取って外を見遣ると、日が傾いて随分暗くなっていた。
女の人だけだと、危ないかな。家まで送ったほうがいいかな。少しだけ考えて思い直す。お姉さんの家とうちは、徒歩数秒の距離だ。提案したら、変に思われてしまうだろう。
「じゃあ、これ、母さんに渡しときます」
「うん、お願いします。また学校の近くで会おうね!」
バイバイ、と胸の前で手を振って、お姉さんはうちに背を向ける。隣の家に入っていくのを見届けて、ドアを締めた。
ダイニングの母さんに回覧板を渡すとき、母さんは、気味の悪いニヤニヤ笑いを浮かべていた。
「よかったじゃない。同じ最寄り駅で。大学生のが遅いから、同じ電車じゃないかもしれないけど」
「うるさいな」
母さんの茶化をつっぱねながら、内心「同じ電車ではないのか」と落胆する。
「ま、とりあえず制服を脱いで来なさい。明日までに、汚したくないでしょ」
「はいはい」
気のない返事をして、部屋に戻りつつ上着を脱ぐ。部屋に戻ってネクタイの結び目に指をかけたが、解くのを逡巡した。
もったいない気もするけど、しかたない。どのみち脱がなきゃいけないんだ。せーのでさっとネクタイを解く。制服をクローゼットに仕舞いながら、お姉さんのことを思った。
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