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Monologue 1
また、この男の手中に堕ちてしまう――。
そう思って、飲まれかけた意識を呼び戻そうと、私は瞼をこじ開け、深く息を吸う。空気を溜め込んだ胸の上下に合わせ、躰に巻き付く麻縄が締まった。
若草色の柔らかなラグの上、流した脚をもぞ、と動かす。小花柄のワンピースの奥に溜め込みはじめた欲を、悟られまいとして。「これが三点留め。後手縛りの起点だ」
背中で縄同士が擦れて埃っぽい独特の匂いが立ち昇り、鼻先を掠めていく。
むき出しになった胸の膨らみの付け根を這う、綺麗に揃った四本の縄。まるで彼の腕のように、強く私を抱いていた。「……そう」「おいおい、教えてる最中に感じるな」
背後で縄を操る瑛二は鼻で笑い、新たな縄の束を解いて背中のそれに繋げる。「なに、言ってるの……。途中から縄が変わったわ……」
そもそも今日は、縄を教えてくれるという話のはずだった。なのに躰にかけられるうちに、気づけばもっとほしくなっている。そんなつもりはなかったのに、本気を出されると本当に厄介だ。「憎たらしいくらいよく読むな、お前」
言葉の割には楽しそうに瑛二は言う。
縄は語る。意志や感情、人間性。縛り手の性質を、躰に流れ込ませるように伝えてくる。私はそれを、たぶん人よりも深く読み取ることができた。「歪みのない人ね、本当に。あなたって」「軽く悟るやつはたまにいるけど、ユイはよく言語化できるな」
顔の横に落ちたまとめ髪のひと束を、彼が掬うように手に取った。緩やかな仕草で私の耳に掛け、再び縄を掴んで胸の下をくくっていく。
彼が初めて私に縄をかけようとした時、ひどく戸惑われたのを思い出す。
幼い頃に抱いて以来、かかえ続けた渇望。緊縛師という生業の彼に晒すことも散々迷い、ためらった末にようやく『縛って』と絞り出した。彼は求めに応じて私を縛り、縛り続けた。
この躰も、精神も。三年にも及んでなお。だけど今、私たちはそれぞれ下した決断のもとで、別々の道を歩もうとしてる。
「ねえ、瑛二くん」
欲情の波がすぐそこまで迫り、彼の名を呼んだ。肩まで届きそうな柔らかな髪が首元で揺れ、喘ぎかけた声を飲み下す。「……私、この部屋出るわ」「そうか」
彼はさして驚きもせず、「好きにしろ」と言った。元々マゾヒストの私がサディストに転じてミストレスになることを宣言した時も、同じように淡々としていた。それがとても寂しくて、悔しかった。「ねえ、瑛二」「……なんだ、結衣子」
手繰り寄せるような私の呼びかけに彼は応じ、胸縄を留めて私の前に躍り出る。
差し伸べられた手が私の顎に添えられた。縄の匂いが一段と増し、まっすぐに見つめる彼の瞳に私が映り込む。「どうせあなたは私のこと愛してるんでしょう」
彼は面白くなさそうに目を細めた。「どうせってなんだよ。二十四の小娘が生意気な」「いきなり主従を決意するようなサディストに言われたくないわ」「二十年もマゾだった末にS転するような女がそれを言うかよ」「さみしい?」
手が出せないぶん、挑発的な視線を返す。どのみちこのあと、そんな抵抗も組み伏せられる。「……愛してるよ。でも、それだけだ。お前もそうだろ」
セックスフレンドじゃない。恋人でも、主人と奴隷という主従関係でもなかった。だからある意味でとても安心していた。関係性に名前をつけなければ、私たち二人に『終わり』は訪れない。「ええ、愛してるわ。でも……それだけ」
それを確認するように、示し合わせて互いにそう言い合う。空気の張りが、次第に粘度を増していく。「やめだ、やめ。やっぱちゃんと受け手がいる場所に行かねえと教えらんねえわ」「もぉ。ちょっと考えたらそのくらいわかるでしょうが……」「お前が綺麗になるのが悪い」
だから今は。瑛二が耳元で囁く。「俺の縄を味わえ」
そんなの何度でも味わった。これからもきっと、何度でも味わう。誰に抱かれても誰を抱いても、もとの鞘に収まるように戻ってきた。
それが、縄で繋がれた私たち二人だと思っていた。
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