望む者に縄を

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望む者に縄を

 マットゴールドのボンデージのファスナーを胸まで引き上げ、倉本(くらもと)結衣子(ゆいこ)は鏡を見た。  黒く縁取りされた裾と袖のラインを指で辿り、セットアップの黒のショートパンツに触れる。脚にはレースのガーターベルトとハイヒール。緩くウェーブした栗色の髪をひと払いすると、オリエンタルな甘い香りが漂う。最後に赤いリップを塗り直して、一度目を閉じ、静かに開けた。  綺麗とも可愛いとも人には言われるし、自覚もある。先月三十歳を迎えてなお肌は瑞々しく、体型の崩れも皆無だった。  睥睨するまなざし、唇にほほ笑み。全身を前も後ろもくまなくチェックし、結衣子はキャスト用の更衣室をあとにする。  靴音を鳴らしてバックヤードを抜け、フロアに繋がるワインレッドの厚いカーテンを開ける。すでに準備を終えたキャスト達が一斉に結衣子を見た。土曜のこの日のシフトはミストレスが五人、M嬢が四人。思い思いの衣装を纏ってソファやスツールに座っている。それから、バーテンダーの男が一人、引き締まった長身の背をすっと伸ばして壁際に佇んでいた。  口々に「おはようございます」と告げる全員の顔と出で立ちを、ひとりひとり認めていく。結衣子はにっこりと笑って口を開き、透明感のあるよく通る声を発した。「おはようございます。みんな元気ね」『8 Knot(エイトノット)』は、結衣子がオーナーが務めるフェティッシュバーだ。都内有数の繁華街である銀座の地で、夜を鮮やかに彩る並木通り沿いのビルの一階にある。SMをはじめ、フェティシズムについて話したり、縄や鞭、蝋燭の体験ができる夜の店として、この界隈でも名が知れ渡っている。  真っ赤なドアを開けて黒い床に足を踏み入れると、豊富なアルコールが並ぶバックバーを背負った本格的なバーカウンターが客を迎える。だが普通のバーとは違い、朱色の壁にはバラ鞭や(ケイン)、首輪に枷などの道具がディスプレイされている。  右手の角には天井の梁とカラビナを備えた扇状のステージ。その壁にそれぞれ貼り付けた大きな鏡を、ドレープカーテンが覆っていた。  そこを直角に折れた先は接客スペースで、高い背もたれの黒革のソファ、テーブルや丸スツールがあり、開店前のブリーフィングはここで開く。ソファの奥は格子が嵌った小上がりになっており、キングサイズのベッドを置いていた。ちょっとしたショーにも、仮眠にも使うものだ。  二年前、結衣子はこの城の女王となった。ミストレスになって四年目の五月十二日、自身の誕生日だった。  スツールのひとつに腰を下ろし、連絡事項を指折り伝えていく。皆が頷いたのを確認し、結衣子は話題を切り替えた。「今日は瑛二くんが緊縛師として来るわ。ショーのパートナーはカナちゃん、お願いね」  呼ばれたカナはミディアムボブの頭をぱっと上げ、顔を輝かせる。「いいんですか!?」「瑛二くんご指名よ。カナちゃん、縄の受け手も上手になったからって」「わぁっ、うれしー!」  満面の笑みで喜ぶ彼女は、この中では最年少で四月に仲間入りしたM嬢だ。身に纏ったピンクのベビードールとチュチュスカートがよく似合う。「そのあと縄を覚えたい子は教わるといいわ」  結衣子が頬を緩めたところで、真琴(まこと)が挙手をした。艶めくショートの黒髪と長身が魅力のミストレスだ。「私、教わったあとで結衣子さんに読んでもらいたいです」「喜んで。ほかには誰かいるかしら?」  さっと全体を見回す。と、バーテンダーの小峰(こみね)(りょう)と目が交差した。一度視線を外すも、彼のまなざしはそれとなく結衣子に向けられたままだ。  黒髪を緩くオールバックにまとめた長身の彼は、整った顔立ちのせいもあって女性客からの人気が高い。聡明さを湛えた切れ長の一重の目には、静かな熱がこもっている。  結衣子は再び稜を流し目で見やってから、全員に向き直った。「真琴ちゃんだけね。あと、みんな気づいてると思うけど、来月の七夕用にそこに笹を飾ったの。短冊も用意したからみんなお願い書いてね。お客様にもすすめてあげてちょうだい」  結衣子の指差したほうへ皆が注目する。そこには折り紙や輪飾りで彩られた笹竹がそびえている。当初はフェティッシュバーでなぜ、という声もあったが、二回目ともなれば恒例行事だ。笑い混じりに皆が返事をするのを眺め、ぱん、と手を叩く。「それじゃ」  にっこりとほほ笑んで、結衣子はいつも告げている決まり文句を述べた。「今日もお客様たちを目一杯愛しましょう」  解散を言い渡してすぐ、結衣子は「カナちゃん」と呼び止め、手招きする。カナを先導し、バックヤードからバーカウンターの裏へ通じる廊下の途中、バックルームと名付けたスペースに靴を脱いで踏み入って腰を下ろした。カナが向かいにぺたんと座る。「働き始めて二か月ね。どう?  お仕事慣れた?」  柔和に尋ねると、カナはにこにことしながら「はい!」と元気よく答えた。「みんな言ってた通り、お客さんいい人ばっかりだし」「そう、よかった」  相づちの先を続けようとしたところでインターホンが鳴る。壁に掛かるアンティークな時計の針は、開店の七時にはまだ遠い。発注業者は来訪済みだ。結衣子は頭に一人の男を浮かべて立ち上がり、廊下側の壁にある応答ボタンを押した。「はーい」「俺」  相変わらずの不遜な声に、呆れを込めてぶつりと切る。仕方なくフロアを仕切るカーテンに手を掛けたその時、ちょうど稜と鉢合わせた。「瑛二さんですか?」「そうなの。こっちに通してくれる?」「はい」  抑揚なく返事をした彼が表へ行ったのを見届け、結衣子は元の場所に座り直す。ほどなくして現れた逞しい長身にカナは両腕を拡げた。「瑛二さんだぁー!」「おう、元気そうだなカナ」  ハグ、というより体当たりに近いカナのそれを、瑛二はしっかりと受け止める。真顔だとやや強面だが、彼女の頭に手をやる彼の表情は柔らかい。  彼はついでのように、肩ほどまである緩くウェーブした髪を揺らし、結衣子に向かってニヤリと笑った。「お前もくるか、女王様」「遠慮しておくわ、緊縛師さん」  知らぬ間に組んでいた腕を解いた結衣子は、大きなカメラバッグを下ろす彼を見る。千堂(せんどう)瑛二(えいじ)、緊縛師でフォトグラファー。前髪から覗く瞳は、何かを狙っているかのような底深い光を宿している。  結衣子が二十一歳の時に知り合ってから、交流は十年目に突入した。結衣子が緊縛術を教わったのも、四か月前にカナを突然この店に連れてきたのも彼だった。「楽しそうだな、なによりだ」「うん!」「ハルとの生活は?」「楽しいよぉ。最近お洗濯とかお掃除も、ハルちゃんに任されるようになったの。結衣子さんとこも楽しかったけど、おうち広くてドキドキしちゃってた」「ユイの家なぁ。いいよな、ここから歩ける距離で2LDKとか」「偶然に恵まれただけよ」  軽く受け流し、会話を続けるよう瑛二に視線を投げる。そもそも彼が今日ここに来たのも、カナの確認のためだ。「嫌なこともないか?」  訊かれた彼女の顔が少しだけ曇る。「……たまーに。ほんのたまーに、フラッシュバックする。毎日楽しいから、反動……っていうか」「それでもいい。減ってるんだろ。楽しいならそれが一番の薬になる」「そうかな……。そうだといいなぁ」  カナの頭を瑛二が再び撫でると、彼女はぱっと振り切るように顔を上げた。  結衣子は瑛二にじゃれつくその背を注視する。生々しく走っていた一本鞭の外し痕はもう、すっかり薄れていた。「結衣子さん、カナもう行っていい?  みんなと短冊書いてくる」  カナが結衣子を振り仰ぐ。結衣子は大きく頷き笑みを浮かべた。「もちろん。たくさん書いて」「はぁーい。じゃああとでね、瑛二さん」  ぱたぱたとフロアの方へ駆けていく後ろ姿を二人で見送り、同時に息をつく。結衣子が躰ひとつ分近くに寄ると、瑛二は声を低くし、「よかった」と呟いた。「ほんとに。あなたがいきなりあの子を連れてきた時は、どうなることかと思ったけど」  瑛二が緊縛ショーのために赴いた地方のハプニングバーに、カナは偶然居合わせた。  当時の彼女の主であった女が男とプレイし、カナがそれを見る。寝取られ的な趣向かと瑛二は思ったそうだが、真実は違った。カナは見ていたのではなく、目の前の裏切りの光景が信じられず、動けなくなっていたらしい。「仮に同意があったってつらいわね。絶対的な信用をおいていた主の、そんな姿を見せつけられるのなんて」「おまけに体中、鞭の外し痕や縄の擦過傷だらけ。調教と虐待は別物だ。心も躰も傷を負う」  瑛二がカナを連れ出して来たのがここ、8 Knotだった。事情を聞いた結衣子が見放せる訳もなく、保護というかたちでカナを自宅に住まわせた。  店のキャストや瑛二とともに、代わる代わる常に彼女を見張るようにして二か月。元気になったカナが、『8 Knotで働きたい』と口にした。「よかったよ。ここで働くことにお前はいい顔しなかったけど」「そりゃそうでしょう。傷口開くことにもなりかねないもの」「行為の中で受けた傷は行為の中でしか癒せない。愛情あるそれを見るだけでも違う」「稜くんに同じようなこと言われたわ。私、彼より二つ上なのにね、説得されちゃった」  困ったように笑うと、瑛二がぴくりと眉を上げる。結衣子は顔を俯け、薄く目を伏せた。「今はね、間違ってはなかったと思うの。小春ちゃんと同居できたのも自立の一歩だし」「ま、それはそうだな」「カナちゃん、今日も優しく抱いてあげて」「誰に言ってんだ」  片側の口角を得意気に持ち上げ、緊縛師は不敵に笑う。結衣子は「それじゃ」と仕切り直すように立ち上がり、外へ向かった。ドアに掛かる『CLOSED』の看板を『OPEN』に裏返す。ドアに走り書きしたような店名に当たるスポットライトを灯せば、準備は完了だ。  ここに訪れる者は、いろんな思いをかかえてこの扉を開ける。結衣子もまた、客がかかえた扉に手を伸ばす瞬間はどきどきする。  人の欲望は千差万別、人の数だけ(へき)がある。8 Knotはそれを晒すのを許すために、結衣子が築いた城なのだ。  日の変わる直前、最後の客を見送って、この日は営業を終えた。外は梅雨の中休みで、蒸した暑さが立ち込めていた。  薄暗くなった店内に戻り、ステージで麻縄を用意している真琴と瑛二のもとに向かう。  緊縛に使う縄は、全長七メートル。それを半分に折った、縄頭(なわがしら)と呼ばれる輪の部分を手元に置いた真琴が、結衣子を迎えるようにその場を少しずれた。結衣子はそこに膝を流して座る。「どう?  真琴ちゃん上手になったでしょ」「まあまあだけどまだまだだな。マコはキメる時に変な力みがある」瑛二が言うと、真琴が口を尖らせた。「千堂さん言い方曖昧過ぎんだよ。力みってなにさ」「知るかよ。なんかあるんだよ」  瑛二の雑な言い草に猫目を吊り上げる真琴を、結衣子は笑って「まあまあ」と宥める。  ウエストを絞ったコルセットボンデージも着こなす細長い体躯の彼女は、平均身長の結衣子に比べればずっとミストレスらしい。雇われ時代から一緒に働いていた彼女は、結衣子のひとつ下で、結衣子の不在時にオーナー代理を任せている。「とりあえず今は、縄で語りなさいな」  結衣子の言葉に二人が口を閉ざす。結衣子は念を押すように首を傾げ、ハイヒールとボンデージのトップスを脱いだ。  惜しげもなく晒した胸に、二人の視線が集まる。結衣子は気にせず、髪をまとめてショートパンツに挟んでいたヘアクリップで留めた。  稜が洗うグラスの擦れる音を聞きながら、細く長い息を吐く。「後手(ごて)?」「はい」「じゃあ、いつでもどうぞ」  慣れた調子で両手の力を抜き、目をすっと閉じた。「お願い、します」  掴まれた右手が背で留められ、次いで左手が平行に重なった。埃っぽい独特の匂いが立ちのぼる中、感覚を研ぎ澄ませ、躰にかかっていく縄に集中する。真琴の縛りのポリシーである、『大切にする』を感じ、瑛二の言う『力み』の正体を探るために。  二の腕から胸の付け根を二周、肌に触れる縄の圧――テンションが均一か確かめた真琴は、新たな縄を背に足した。結衣子は、信条通りの心地よさに浸りながら頭の中で言葉を紡ぎ、伝える準備をしていく。  最後の縄尻がまとめられた瞬間、カウンターで蛇口がきゅっと鳴いた。結衣子は時間をかけて目を開き、長いまつ毛を瞬かせた。「どう、ですか?」「……大切にするなら、柔軟さがもっとほしい。力みの正体はそれかしら」「柔軟さ……」「技術は十分、機の読み方もうまくなったわ。けどそれだけじゃ相手の求めにはきちんと応じられない。受け手の変化、今よりも敏感に感じ取ることが課題ね」  淀みなく述べ、おもむろに後ろの彼女を振り仰ぐ。結衣子の評をひとつひとつ飲み込むように頷いていた真琴の耳元に、結衣子は唇を寄せた。「考え事もいいけどほどほどにね」  指摘に彼女はハッとしたが、唇を引き結び「ありがとうございました」と丁寧に頭を下げた。  黙っていた瑛二が、ふいに顔を上げた。追った視線の先に、カウンターから出てきた稜が縄を手に立っている。「あら、稜くんも?」「いえ」  稜は瑛二に歩み寄り、縄をずいと突き出した。「俺のこと縛ってよ、瑛二さん」  断られるとは微塵も思ってないようで、クロスタイを留めるスワロフスキーのピンと、ジレのボタンを外していく。怪訝そうに瑛二が眉をひそめたのも、意に介さないようだ。「ああ?  んだよ、急に」「縄筋の勉強させてほしくてさ。二年前に教わった時もやってくれたじゃない」「ありゃレッスンの一環だ。プライベートで男縛るとか、気が乗らねえんだよ」「これもレッスンでしょ、師匠。なんなら女装でもしてこようか」  稜は冗談か本気か悟りづらいほど真顔で告げる。瑛二は舌打ちし、眼前で揺れる縄をぶっきらぼうに取った。「男性を縛るの、めったにないものね。稜くんの女装も興味あるけど」  想像して緩んだ頬を両手で覆って言うと、稜は口角を少し持ち上げた。「真琴みたいにならなれそうな気がする」「やーめーろ。意外と似合いそうでイヤだ」  真琴が縄を解きながら苦々しい顔になる。その横で瑛二は稜を座らせ、彼を後手に縛っていく。  渋々始めたものの、手捌きに雑さは一切ない。女性を相手にするのと変わらず丁寧で雄々しい。結衣子が受ける時も、誰かを縛るのを見る時も、毎度魅せられる。彼が真摯な面持ちで目の前の躰を縄で彩っていくさまは、結衣子の心をいつも惹きつけた。  瑛二の縛りのポリシーは、『綺麗にする』だ。「お前もユイみたいになんか感じ取るのか」「生憎、結衣子さんほど感受性豊かじゃないんだ。面白くないんだろうなってのがわかるくらいかな」「そりゃ大当たりだ」「でも瑛二さんはそういう理由で教えを乞う人間を突っぱねる人じゃないから」  喉奥をクッと鳴らして稜が肩を震わせる。ますます面白くなさそうな瑛二を見て、トップスを着直した結衣子も笑みをこぼした。  真琴が挨拶をしてその場を去り、結衣子は脚をくつろげて二人の様子を眺める。  バーテンダー兼用心棒の稜は、縄も達者だ。客の女性を縛ることもする。そういう立ち位置の者が必要と考えて、結衣子は店を開業する前に稜を他店から引き抜き、腕前や感性を確かめた上で雇い入れた。  言葉選びや視点、聡明さ。すぐに切り替えられる機転の良さ。結衣子に足りないものを、彼は多く持っている。「やっぱすごいな。本当に抱きしめられてるみたい」  稜が言う通り、縄は受け手を抱きしめる何本もの腕である。だが言われた瑛二はむっと眉をひそめた。「男から聞いて気持ちいいセリフじゃねえなぁ……」「俺がもう一人いたらいいのに。自分の感覚の違いまで体感できないのがもどかしい」「ユイにやってやれよ。さっきみたいにぺらぺら喋るぞ」瑛二が結衣子へ顎をしゃくった。「それも時々してるよ。でもまだ至らない」「あら、至らないってことは全然ないわ。元々の勘もいいし稜くんらしい縄だと――」「それだけじゃ足らないんで。ありがとう、瑛二さん。解いてくれる?」  結衣子の言葉を遮って、稜は瑛二に告げた。瑛二が淡々と稜の縄を解く中、結衣子は言外の意味を悟ってゆっくりと瞬いた。  使い終えた縄を稜がまとめて乾燥させるため梁に掛けに行く。それを見計らったように、瑛二が結衣子に近づき、耳打ちした。「このあとは」「売上計上」「そうじゃねえよ」  そこで今気づいたとばかりに結衣子は「ああ」と呟き、指を唇に当てた。「先約があるの」  一瞬だけ稜へ視線を流すのも忘れなかった。  瑛二が忌々しげに目を細めたのを横目に、ハイヒールを手に立ち上がる。「今日はどうもありがとうね、瑛二くん。七夕までにお願いごと書きにきて」  ヘアクリップを抜いて解けた髪をひと払いし、結衣子は裸足で更衣室へ向かった。  着替えている途中で、バックヤードからJロックがかすかに流れてきた。  稜が計上作業をするときはいつも、お気に入りの曲を流す。結衣子はそのメロディを口ずさみながら、ワンピースのファスナーを上げ、ドアを開けた。  ほのかな橙色の灯りのもと、赤いエナメルのパンプスに足を入れて音のほうを見る。稜はすでに私服姿で、丸テーブルに広げたラップトップのキーボードを叩いていた。「お疲れさま」「お疲れさまです。表の戸締まりは瑛二さんが出た時にしました。あと三件入れたら終わります」「早いのね、ほんと頼りになるわ」「フリーで自分で色々やる面倒くささに比べればこのくらいは全然」  打ち込んでいく手元を、斜め向かいのスツールから覗く。出版社勤務を経て独立しフリーライターになった彼は、時間の融通が利くせいか結衣子の片腕として動いてくれることが多くなった。  終わり、と稜が息をつき画面を閉じる。音楽もやみ、訪れた静寂に空気が揺れた。「出ましょうか。俺を連れて行きたいバーってどこなんです?」  訊かれた結衣子は、「とっておき」と片目をつぶった。  カウンターに座った結衣子と稜のあいだ、バーテンダーが一本のボトルを置き、ごゆっくり、と残して去った。二人は乾杯、と掲げたロックグラスの縁を薄く重ねる。  8 Knotと結衣子の家の中間あたりに位置する、地下に潜ったショットバーだ。カウンターにテーブル席は三つ。こぢんまりとした店内の割に、酒の品揃えが豊富なのがいい。「こんなところあったんだ」  稜がバックバーを確かめるように凝視する。「こないだ見つけたの。クレメンタインが置いてあるお店、銀座ではじめてだわ」  結衣子はボトルを手にし、女の肖像が描かれたラベルをまじまじと見る。  かつて稜が働いていた六本木のSMバーで彼に供された、お気に入りで思い出深い一本だった。そこで起きたある出来事から、結衣子は彼を引き抜くと決めた。以来こういった場所に来るたび、このボトルをつい探す。「そんなに好きなら、うちにも置いたらいいじゃないですか」「外で飲む楽しみってあるでしょう。人のお金で食べる焼き肉やお寿司がおいしいのと一緒よ」「ちょっと違う気がする」  稜はどこか呆れながら、グラスを傾けた。尖った喉仏を上下させ、「まあ、言わんとすることはわかりますけど」怜悧な横顔を綻ばせる。結衣子は得意顔で、ね、と言った。「たしかにうちは本格バーも謳ってるけど、それがメインじゃないもの」「わかってます。今日は一杯だけですよ。ほんとは素面が鉄則なんですから」  フェティッシュバーながら本格的なショットバーとしても楽しめる。開店からわずかで空前の人気。オーナーであるミストレスは新宿の老舗から独立して店を構えた実力者。夜遊びを楽しむ者たちのあいだでは、真実に誇張と色がずいぶんと足されていた。  そのオーナーの本質がマゾヒストであることなど、誰も知る由もなく。  細く開けたカーテンから夜の明かりが降り注ぐベッドで、結衣子は脚をくつろげた。髪をまとめたクリップ以外、身につけるものはない。「結衣子さん」  品のある声で呼び、稜が結衣子を背後から抱きしめる。素肌の上半身を背に押し付け、耳に、肩に唇を落としていく。結衣子が喉を仰け反らせると、稜はそこをベルベットを撫でるように節くれだった指を這わせた。素のマゾヒズムが早くも期待で疼き始め、鎮めようと深く呼吸をした。「縛りますよ。きつかったら、『無理』って言って」  その言葉は、セーフワードだ。それを口にすれば、している行為を即座にやめる。口にできなければ舌打ちを使う。  流れるように両腕を取られた。折り重ねた手首を後ろ手に縛られ、目を閉じる。彼の熱っぽい息遣いを肩に感じながら、自身を縄に委ねた。  麻縄は左腕へ回り、指で押さえたその場所からまっすぐ胸の付け根を這う。背を軽く反らせたところで胸縄と手首の縄がぐっと締まり、「うっ」と息を詰めた。「痛いですか?」  小さく首を横に振る。声を出せば甘さが混じってしまう。それを感じ取ったのか、稜は鼻でふっと笑い、新たな縄を手にした。『結衣子さんを縄酔いさせたい』  店がオープンする前、稜がそう宣言し、瑛二に緊縛を教わるようになった。  とはいえ、瑛二の縛りと稜の縛りは違う。どんな教えを受けても、同じになりはしない。彼のポリシーは『乱れさせる』ことだ。  乳房が上下で縄に挟み込まれ、中央で寄せられ押し潰れてくびり出る。これまでより締めつけ感が強いが、抱きしめられているような心地よさが勝る。最後の留めの処理が済み、結衣子は堪らず熱い吐息を吐いた。  真琴の縄を受けた時のように考えがまとまらない。それでもどうにか評価を述べようと口を開いた。「……なめす瞬間、締めたのね。余計な緩みが前より減った」「当たりです。さすが」「瑛二くんに、縛られたから?」「はい。結衣子さんにはテンションで調節するより決めやすいかもって。予想通り」  くす、ともれ聞こえた笑い声に背筋が震える。縛られた場所がじんわりと熱を持っていて、皮膚の表面に汗が浮かび出した。「ほかには?  いつもならもっと言ってくれるじゃないですか」  稜が結衣子の正面に膝をつく。切れ長の目を細めて結衣子の躰をゆっくりとねめつけ、視線を捉えられた。逸らそうと試みたが、絡みつくようなそれに気づけば吸い込まれ、眉根が寄る。  呼吸が短くなった。躰の奥の熱さが焦れったい。持ち上がった彼の右手に、わずかに期待を膨らませた。だがその手は思わせぶりに宙を舞い、彼の顎の下に収まった。「まだまだか。あとはなにが必要かな……」  わかっているくせに。  もったいつけて薄笑みを浮かべる唇を結衣子は睨み、躰を揺する。「稜、くん……」「はい」「あとで……」  ちゃんと言うから。言えるようにするから。だから、今は。「早いんじゃないですか、女王様」  うなだれた結衣子の頭が再び持ち上がることはなかった。  稜の手が、くびられた乳房の前に伸びてくる。膨らみを爪の先で引っ掻くように触れられた途端、結衣子は鋭く声を放った。 「なかなか難しいな、結衣子さんを縄酔いさせるって」  ため息混じりに稜が言い、ベッドに潜り込んできた。  麻縄が部屋の床を蛇のように這う。結衣子はまどろみかけた意識を奮い、稜に躰を向けた。「そんなにさせてみたいもの?  意外にこだわるのね」「これでも案外男の子なんで。決めたのに二年で一度もできてないんだ」  稜が考えあぐねるように宙に視線をさまよわせ、結衣子もアドバイスを探す。  そう簡単に縄酔いをするわけではない。縄が読めるようになって受け方も変わった。縄酔いという状態は、読んだり感じたりするのとはまた違う。それらの選択肢が除外されない限り、結衣子が縄に酔うことはない。「なら、統一させてみなさいな」「統一?」「あなたがかかえてるいろんな矛盾。なんでもいい、ひとつに統一させて縛ってみるの」  言いながら人差し指を一本、星を指差すように天井に向かって突き立てた。  彼は人より二面性が強い。そのぶん意識も分散しやすいのか、感じ取る結衣子も縄酔いしづらくなる。瑛二との大きな違いのひとつだ。「困ったな。そういうひたむきさあんまりないんだ」「その一瞬だけでいいのよ」『一瞬』を強調して言い、結衣子は稜の頬に手を添える。手首には赤く染まった縄痕が絡みついている。「……できるかな」「楽しみにしてるわ」「七夕のお願いそれにします」「まあ。去年の『独立独歩』よりずっと素敵」  暗がりでも、彼の整った顔がよく見えた。店で口説かれるのも知っているし、結衣子以外にも彼には異性の気配がある。同じような部分が結衣子にもあるからわかる。  それでも最近、以前と比べて彼と肌を重ねる頻度が増えた。「瑛二さん」「え?」「誘われたんじゃありません?」  彼の口から出ると思っていなかった名前に、結衣子の躰が固くなった。「……どうして、そう思うの?」「不機嫌そうに出てったから」  結衣子は薄く目を伏せ、彼の筋肉質な胸に手を滑らせる。  恋人ではない。セックスフレンドとも違う。ただ時々誘い、誘われ、互いの嗜好を満たすための深い躰の関係を持つ。ありがちなことではあるが、ありがちでない事情もあった。  結衣子にはそれが二人いる。三者三様で理解し、納得していた。  サディストとして客を愛し快感を与える一方で、マゾヒストとして彼らから愛され快感を享受する。いびつな三角関係。そのうえで結衣子・瑛二・稜の三人は、仕事で、時にはプライベートで関わり合ってきた。ただ一点、それぞれの関係には触れることなく。「……ほんと、よく見てるのね。稜くん」  穏やかにほほ笑み返して目を伏せると、唇をふさがれた。しばらく口づけをしたのち、胸に顔を埋めて再びのまどろみを待つ。  なぜどちらも手放さないのかと自身に問いかけても、詮無いことだった。  心の奥底深く抱いた渇望は、こうして一時の平穏を得てもすぐにまた渇く。もっとほしいと焦がれるように願い出す。辱めも羞恥も快感も、愛情も。まるで小さな子どものように、ひたすらに求めていた。  こんな自分を、抱いているその瞬間だけでいいから、愛してほしい、と――。 この先はKindle、もしくは書籍にてお楽しみください。 https://www.amazon.co.jp/dp/B09TTP5W5P
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