番外編 期待している愚かな師匠に心をこめた甘いのを

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番外編 期待している愚かな師匠に心をこめた甘いのを

 二月は、遥香がある意味で一番好きな時期である。どこへ行ってもチョコレートが並ぶからだ。銀座など特にそれが顕著で、名だたる百貨店は常に浮かれた空気が漂い、甘い匂いと女子であふれていた。 「ねえ遥香ちゃん。デルレイも見てっていいかしら?」  結衣子がポニーテールをなびかせ、遥香を振り返った。ダークブラウンの大きな紙袋を持った手からぴんと伸びる人差し指は、先ほど人だかりができていてスルーしたショップの方向を示している。 「いいですけど結衣子さん、お店の分もう買いましたよ? ……って」  遥香の両手にも同じような大きさの白い袋があったが、彼女はすでに人を掻き分け進んでいた。  日曜日のチョコレート売り場は、さながらサバイバルゲームのようだ。目当ての商品は一発必中、買い求めたら即撤退。狙えなければ一時離脱で、時を窺い再突撃する。  去年もこんな調子だったと遥香は思い出し、チェスターコートを翻してあとを追った。  結衣子が立ち止まった店のショーケースの中には、ダイヤモンドをかたどった色とりどりのチョコレートが並んでいる。本命か、と遥香は中腰になった彼女の優しげな横顔を見て察した。  やっぱデルレイといったらこのボンボンショコラよね、でもラ・メゾン・デュ・ショコラもいいなあ、それとも奮発してルノートル……。  結衣子からぶつぶつと呪文詠唱が聞こえてきた。店で配るものは目星をつけていたのかすぐに決めたのに、本命となると結衣子でも迷うようだ。 「稜くんっぽいっていうか、結衣子さんっぽいですね」 「やっぱそう思う? でもどうせ一緒に食べるから、私が好きなのでもいいかなあって」  遥香ちゃんは? 相変わらず本命なし?  覗き込んでくる結衣子に、遥香はうっと喉に息を詰めた。 「……まあ、彼氏も、これといって特定の好きな人もいませんし」  そう言っておきながらふと、脳裏に瑛二の顔が浮かぶ。  渡すシーンを想像し、すぐさま打ち消した。ない。ありえない。そもそも彼は、今も不在なのだ。  交わすのは業務報告レベルのやりとり程度で、一年以上顔も見ていない。にもかかわらず今、突然浮かんでしまった。たぶん、彼が帰ってきていることを知ったからだ。  気づいたのは十二月の頭だった。彼が撮ってきたフォトアルバムが詰め込まれた寝室の本棚に、新しいものが増えていたのだ。  勉強のために見ることは伝えてあったし、と恐る恐る開くと、中はやはり新しく撮られた写真だった。  以来たびたび、小道具が置いてあったり減っていたりした。  帰る時くらい教えてくれればいいのに。年明けに電話をよこした時に言ってはみたが、荷物溜まるから置いてくだけだ、と答えにならない答えではぐらかされた。  思い起こすとムカムカとして、遥香は唇をむっと内に巻き込む。 「うん。決めたわ」結衣子が背を伸ばした。 「私も買おうかな」遥香は三個入りの小さな箱を半ば睨みつけて言う。  自分のために。でももし、万が一、気が向いたらあの部屋に。 「一緒に買いましょうか? いつも頑張ってくれてるからご褒美に」 「えっ?」結衣子の申し出に遥香はうろたえた。「や、いえ、これは……」  言い淀んでいると、結衣子が探るように首を傾げる。このままだと何か見透かされてしまいそうだ。  遥香は曖昧なほほ笑みを返し、首を横にひと振りした。「ちゃんと、自分で買います」 「そう? わかったわ」  結衣子が注文する隣で、遥香も三個入りを買い、百貨店を出た。  日差しに恵まれ、風もなく、気温の割にあたたかいせいか歩行者天国も賑わっている。戦利品の袋を嬉しそうに振って歩く結衣子を横目に、遥香は気づかれないようにため息を吐いた。 「遥香ちゃんはこのまま帰る?」  急に話しかけられ、遥香は笑みを作った。「いえ、荷物いっぱいだし、お店まで持っていきますよ」 「助かるわ。時間があるならお茶しましょう。実はおやつのケーキ買ってあるの。ダロワイヨのオペラサンク」  結衣子がそう言っていたずらっぽく笑う。間違いのないチョコレートケーキの名に、遥香もつられて「わあっ」と色めき立った。 「嬉しい! ごちそうになります」  決まりね、と結衣子は口元を緩ませ、遥香を並木通りへ促した。  オペラにさっくりとフォークを沈ませ、ひと口。上品な甘さが喉まで広がり、遥香は目を細める。 「うわぁー……重厚感があるのに軽やか……」 「でしょう。チョコとクリームのバランスも最高なのよね。コーヒーとも合うし」  言われて遥香はコーヒーのカップを傾けた。わかってはいたが、相性は抜群だ。「でもいいんですか? 私と食べちゃって」 「ええ。だって遥香ちゃんと食べるのを想像しながら買ったもの」  自分のためじゃなく何かを買う時ってそうじゃない? 必ず誰かが出てくるでしょう。  蠱惑的な笑みを浮かべ、だからね、と結衣子が言う。 「私好きなの、バレンタインって。義理だろうと本命だろうと友だち同士だろうと、誰かが誰かを思っているんだもの」  遥香は一瞬どきりとして、床に置いたバッグの傍ら、チョコレートの袋に意識を向けた。  女子でいっぱいの売り場を思い出し、この時期によく聴く曲が頭の中で流れ始める。計算する一方でときめいて、思いよ届けと唄う歌。  去年は特に何もしなかった。帰っても来ていなかったし、連絡も今よりは頻繁にあった。  メッセージも電話も来なくなったのは、帰ってくるようになってからだ。だからよけいに気になってしまう。 「遥香ちゃんは、去年は友チョコだけだったかしら」 「はい、カナちゃんたちと。あとは691にちょっと大きいの持っていったくらいで」 「わいわいするのも楽しいわよね」  フォークを置いた結衣子が、バッグの中から平たい円形の缶を取り出し、遥香に差し向けた。  見た目だけなら紅茶の茶葉でも入っていそうだったが、中からはざらざらと重い音がした。遥香は瞬いて首を傾げ、「なんですか?」と受け取った。 「コーヒービーンズチョコ」 「私に、ですか?」 「いいえ、瑛二くんに。お願いしてもいい? その袋の隣にぽいって置いてくれたら十分」  遥香は再びどきりとした。「その袋の、って……」 「あら、それ瑛二くんに渡すチョコレートでしょう?」  彼女が指差す先には、ダイヤモンドのロゴが光る紙袋が鎮座している。  いいえこれはマイチョコです、自分へのご褒美です、と言おうかとしたものの、妙に空いてしまった間がその言い訳を許さなかった。  結衣子がにこーっと目と唇に深い弧を描く。 「っもう、結衣子さんやだ…………」遥香は両肘をテーブルにつき、うな垂れた。 「照れなくていいじゃない」  上目がちにちら、と結衣子を見やると、「ね?」と返ってきてますます顔に熱がのぼる。 「べっ、別に、渡す、っていうか……」 「まあ直接渡せるわけじゃないものねえ」 「そうなんですよ。ただこう、最近ちょくちょく帰って来てるみたいだし、深い意味はなくて……」 「あってもなくてもいいじゃない。あげるもあげないも好きになさいな」  私のそれは義理チョコだから。さらっと付け足された言葉の捉えどころのなさが、遥香をさらに複雑な気分にさせた。  たしかにこの缶で、本命ということもないだろう。それに結衣子は稜と同棲している。だけど彼女は、瑛二の元パートナーでもあるのだ。 「頼まれてくれる?」  結衣子がダメ押しのように両手を口の前で重ね合わせ、懇願するような視線をよこす。  とても嫌とは言えなくなり、遥香は小さく「はい」と頷いた。ごめんね、ありがとう、と彼女はほっと頬を緩めた。 「遥香ちゃんは、瑛二くんにあげたくなったの?」 「あげたくなった、っていうか……」  テーブルに置いた缶を眺め、ううんと唸り、遥香は俯いて「わからないんです」と切り出した。 「わからない。何が?」 「距離が。近いのか遠いのか、そもそも私がどこにいるのか。だからちょっと、測りたい気がして」  ゆえになんとなく、自分を試すような心持ちだった。  あの歌の『計算』は恋の算段を練る方の意味だろうが、遥香はむしろ、自分の気持ちが知りたかった。 「とはいえ、そもそもがわかんないんですけどね。瑛二さんに抱かれても恋愛感情が芽生えた気はしなかったし、行っちゃった時も寂しかったけど、一緒に行きたいとは思わなくて」  そう、特別に具体的な何かを抱いたわけではない。ただ、この頃。「帰ってくるようになって、連絡があまり来なくなったんです。なんでか訊いてもはぐらかされたし、それがちょっとだけムカついてて。でも理由がどうしても知りたいってわけでもなくて」  しかしどうにも収まりが悪い。恋というほど甘くもなく、愛というほど深くもない。そこで、あのフロアを揺らすエネルギーに、あやかってみたくなったのだ。 「だったら」と結衣子が続けた。 「部屋に置いていけばいいわ。どう捉えるかは向こうの勝手。困らせたっていいじゃない。バレンタインはそういうことも許される機会なのよ」  そのかわり、リアクションは期待しないで。  そう言った結衣子に、心得てます、と返し、遥香は首を竦めてコーヒーを口に運ぶ。黒い液体の表面に、複雑な顔の自分が沈んでいる。  瑛二が離れて一年二か月。帰ってきた時に何をしているのか、何を思って帰ってきてるのか、何も言わないのはなぜなのか。 「……困らせても、いいんですか」 「いいわよーう。向こうだって遥香ちゃんを困らせてるんだし、おあいこでしょう」  自分ばかり悶々と考えるのも癪だし、そこに一石投じるくらい、してやりたい。 「帰りに、ちょっと寄ってきます」  遥香はカップを置き、顔を上げた。 「遥香ちゃんのそういうところ、大好きよ」結衣子が満足そうに笑うから、遥香は少し照れくさく笑った。  決めたらいても立ってもいられなくなった。バレンタインは、一発必中、即撤退。半分残っていたオペラとコーヒーを平らげ、遥香は立ち上がる。 「ごちそうさまでした。おいしかった」 「こちらこそ、お買い物付き合ってくれてありがとう。気をつけてね」  いってきます。結衣子に告げ、遥香は外へ飛び出した。  瑛二の部屋に来るペースはだいたい二週間に一度。することといったら、ポストに投函される郵便物のチェックや、人もいないのに溜まる埃の掃除と換気。写真を見て勉強。帰ってきてると知ってからは、圧縮袋に入っていた布団も干すようになったものの、滞在時間は昼間の二、三時間がいいところだ。遭遇するなどまずありえない。  くせで郵便物を回収して三階に上がり、鍵を回してドアを開けた。染み付いたコーヒーの香りが来るたび薄くなっていて、それが無性に寂しい気がした。  カウンターなら確実に見るだろうと、ダイヤモンドの袋と結衣子から預かった缶を置く。  何か一言、メモでも残そうか。けど、それでリアクションがなければ本当にへこみそうだ。  渡すのではなく置いていくだけ。そう言い聞かせ、遥香は部屋を見回した。  主が出ていったあとのまま空っぽで、だけど寝室に踏み込むとベッドと本棚だけはあって、抱かれたあの日を否応なく思い出す。 「……連絡くらいよこせ。ばーか」  本人に言えれば楽なのだろう。呟いてみても、今はただ虚しく響く。  ため息を吐いて、カウンターの二つのチョコレートを見つめた。  埃が積もらないうちになくなればいいけれど。そう願って、遥香は部屋をあとにした。 ※  リビングテーブルに置いたスマホが着信を告げていた。キッチンから戻る途中で気づいた結衣子は、駆け寄ったものの、表示された名前に顔をしかめて耳に当てる。 「はいはーい」 「今いいか」  瑛二からだ。 「どうぞ。どうしたの? 電話してくるなんて」と言ったものの、稜が仕事で不在なせいか、なんとなく背中がそわっとして身じろいだ。 「家に立ち寄ったんだがな、カウンターの上に……」  瑛二が言いづらそうに言葉を濁し、結衣子は「上に、なあに?」とくすくす笑う。 「とぼけんな、知ってんだろ。チョコレートだよ。ダイヤのやつとコーヒー豆の」  声が一気に不機嫌そうに変わった。「ダイヤのはまあ、ルカだろうが……、この缶お前だろ。見覚えあるぞ」  電話越しに、ざざっと波のような音がする。  いつだったか、バレンタインでもなんでもない時に渡したことがあった。一緒に開け、二人で食べて、コーヒー豆は食べるより飲む方がおいしいと結論づけた。  どうやら覚えていたようだ。 「当たり。遥香ちゃんにはお礼した?」 「してねえよ。っつかなんでお前までこんな真似してんだよ」 「ま。私に文句言うより先に遥香ちゃんにお礼しなさいよ。失礼ね」 「お前余計なこと考えてねえだろうな」 「言ってる意味がわからないわ。余計なこと考えてるって自分のこと?」  瑛二が黙り込んだ。  どうやら図星らしい。遥香が選んだチョコレートも、結衣子が仕掛けたいたずらも、瑛二を考えさせるだけの力があったのだ。  はーっと長いため息が耳元で聞こえた。「お前なあ、どういうつもりだよ」 「人聞き悪いわね、ただ女子としてバレンタインを楽しんだだけじゃない。何をそんなに期待しちゃったのかしら?」  男の子なのねー、瑛二くんはー。声を間延びさせて言い、結衣子は歌のそのフレーズを口ずさんだ。  あーもーうるせー、と瑛二がうんざりと呟き、「困ってるんだ」と言った。「これでも、マジで」  いくらでも困ればいい。『綺麗にして』と遥香に言われた時のように。待たせているのだから、そのくらい請け負えばいい。そう思うのに、 「話くらいなら聞いてあげるけど」  困った顔でいいから、見てやりたくなった。 「……稜は」 「今いないわ。お仕事なの」  そっち行きましょうか?  蠱惑的に告げると瑛二は再び黙った。しばらく経って、「お前なあ」と非難が返ってきた。  結衣子は思わず声を出して笑った。 「ふざけんのも大概にしろよ。普通に聞いたら勘違いするやつだからな」 「勘違いするほどバカだとは思ってないわよ」  二十分後に約束を取りつけ、結衣子は通話を終わらせた。瑛二の中学生男子のようなうろたえぶりがおかしく、苦笑が口をついて出た。  風が吹きすさぶマンションの廊下を歩きながら、コートのポケットに手を突っ込んだ。  キーケースを掴み、はっとして手を開いて底に落とす。その中に、この部屋の鍵はもういない。  インターホンを押すと、応答もないまま開いたドアから、瑛二が仏頂面を覗かせた。少し痩せただろうか。ただでさえ野性的な印象なのに、痩せると輪をかけて鋭く見える。 「久しぶり、瑛二くん」結衣子はにっこりとほほ笑んだ。「コーヒー豆持ってきたわ。ドリップにも飽きてきた頃じゃない?」  入った部屋は、デスクの照明とキッチンの明かりが灯るのみで、寒々しいほど殺風景になっていた。結衣子はカウンターにコーヒー豆のパックと水のペットボトルを置き、部屋の真ん中まで歩み入る。フローリングには埃一つ落ちていない。 「綺麗にお掃除するのね、遥香ちゃん」 「ああ。布団まで干してくれてるみたいだ」  おかげでここでも寝られる。穏やかな声音で言う瑛二に、結衣子は「まあ」と感嘆の声を上げた。  瑛二にはもったいないほど気のつく子だ。この部屋で一人、ただ掃除して帰るのは寂しいだろうに。  コーヒーメーカーの駆動音がして、華やかな香りが漂ってきた。結衣子は紙が散らかったデスクに向かい、印刷された緊縛写真に目を通す。写真集用のものなのか、四隅にはトンボが記されていた。  そちらの準備が順調かどうかはわからないが、少なくとも写真の出来は間違いなかった。竹に沿って両腕を括りつけられたモデルは、えも言われぬ色気を放っていた。  カウンターのスツールに瑛二が掛ける音がして、結衣子も隣に腰を下ろした。ダイヤモンドの箱と遥香に預けた缶は未開封のまま、二つ並んだマグカップの横に置いてあった。 「これ、開けていいんだよな?」瑛二がむっつりとした顔で箱を掲げた。 「いちいち訊かないでちょうだい。正真正銘、彼女からあなたへのバレンタインギフトよ」 「でもメッセージカードとかもなんもねえんだぞ。どうしたもんかと思ってよ」  こういうのってそういうのが付き物だろうが。なのにどっちにもなんもねえもんだから。ぶつくさと言いながら瑛二が箱を開ける。中にはピンク、ワイン、グリーンの三色のチョコレートが、お行儀よく収まっていた。 「中身もダイヤか」 「綺麗でしょう。デルレイのボンボンショコラ、おいしいのよ」 「見た目以外ほかのやつと何がどう違うんだか」 「味とかガナッシュの滑らかさとか、って――」摘んで口に運ぼうとした瑛二の手首を、結衣子は慌てて掴んだ。「なに食べようとしてるの。そっちはあとにしなさいな」 「はあ? 別にいいだろ。なんで……」 「くれた子を思いながら食べるものよ。別の女の前でなんて、デリカシーないんだから」  手を離し、まったく、と鼻を鳴らす。瑛二が渋そうな顔でチョコレートを戻し、缶の方を開けた。  昔は。それこそ恋人のような関係だった頃は、瑛二がもらってきたそれらを「やる」と結衣子にくれた。中には本命らしきものもあったが、包み隠さない態度のおかげでむしろ安心できた。  過去は過去だ。でもせめて遥香にだけは、誠実でいてほしいと思う。 「ねえ瑛二くん。チョコ一つでどんな余計なこと考えたの?」 「別にいいだろ。ほっとけよ」ぶっきらぼうに数粒掴んで口にぽいっと放る。ばりぼりとミックスナッツを噛むような音が響き、やっぱ苦ぇなと瑛二がぼやく。 「ほっとけないわね。あなたが私以外の女を傷つけるなんて、私は絶対許さない」  蔑むような視線を投げつけると、瑛二はバツが悪そうに顔を逸らした。  この期に及んで。結衣子は思わず「瑛二」と呼び捨て、瑛二の襟ぐりを両手で掴んで引き寄せた。「わかってるんだから。そういう時あなたいつも、私の言葉を借りるでしょう」  面食らっていた瑛二だったが、顔をしかめて舌打ちをする。 「あーあーそうだよ。でもどうしようもねえんだよ。言語化が苦手なのはよく知ってるだろ」 「それでも言葉にしなきゃ伝わらないわ。そうやって十年曖昧にしたのに、また繰り返すつもり?」 「結衣子」瑛二が結衣子の手を掴む。その顔は、困り果てたように眉が下がっていた。 「本当に、どう言っていいかわからないんだ。部屋の管理をしてくれてるのはありがたいし、緊縛師として成長してるのも嬉しい。だけどあの素直さに触れるのも、なんつーか……怖いんだよ」 「よく言うわ。ひたむきなところそっくりなくせに」 「……向き合わないといけないとは思ってるよ。だけど今はタイミングが悪い。もうほとんど最後の詰めなんだ。この夏にはできる予定なんだよ」  必死そうに言い訳を重ねられ、呆れてしまった。結衣子は力任せに腕を振り払う。 「そんなこと言われなきゃわかんないでしょ。そんな困ってるんだったらそれ、食べずに残していけば? 置いていったってわかったら、彼女が持って帰るわ」 「んなことするか。これでも嬉しいと思って――」  言いかけて瑛二がはっと口を噤む。が、もう遅い。結衣子は「ふうん」とにやにやとしながらゆっくりと何度も頷いた。「嬉しいの。あーらそう」 「お前ほんっとうっぜぇ……」  来た甲斐があった。頭をかかえる瑛二を尻目に、結衣子はコーヒーを口に含む。やはりここで飲むコーヒーはおいしい。きっとこのダイヤモンドにも合うはずだ。  一時帰宅が増え、連絡が減ったと遥香は寂しそうにしていたが、結衣子は嬉しくなった。それこそがこの男の、不器用な感情表現の一つだったからだ。  連絡をすると、返事がほしくなるから。誘って断られたら、嫌だから。ゆえにいつも、瑛二は突然現れる。それならば諦めがつくと思い込んでいる。  そうなったのはたぶん、結衣子のせいもあるだろう。結衣子が素直じゃなかったから、瑛二も一緒にひねくれてしまった。 「ラインでも電話でもいいけど、お礼くらい言いなさいな。いい大人なんだから」  それに、あなたが感じる一年と彼女が感じる一年は、重みも長さも全然違うわよ。  結衣子が諭すと、瑛二は深く息をついて「わかったよ」と言った。結衣子はもうひと口コーヒーをすすり、買い出しに付き合ってもらったあの日を思い返す。  このチョコレートを、最初遥香は睨んでいた。だけど受け取る彼女は、隠しきれない照れ隠しを頬に浮かべていた。義理でも自分のものでもないと確信したのはその時だ。しかし同時に、迷っているのだとも思った。  そこでちょっと、おつかいを頼んだ。甘いものが苦手な客用にと買っていた、コーヒービーンズチョコだ。  予想通り、遥香は断らなかった。そればかりか、彼女が買ったそれが本来の役目を果たす一助を担った。  自分のために、ちょっと困ってほしい。そのささやかながら大きな我儘は、結衣子にも覚えがある。  結衣子は、つやつやと黒光りするひと粒を奥歯で噛んだ。  やはり苦い。コーヒーは食べるより飲むほうがいい。ざらつく口の中をコーヒーで流し、結衣子は瑛二の部屋を辞した。 ※  玄関先で結衣子を見送り、瑛二は後頭部に差し入れた手で頭をがりがりと掻いた。  コーヒーの残りをカップに注ぎ、スツールに戻ってダイヤモンドの蓋を改めて開ける。言われてみればたしかに、食べるのをもったいなく思うような繊細そうな作りだ。  取り上げて半分かじってみた。甘くもビターで、中に詰まったガナッシュが舌の上で滑らかに溶ける。やけにエロティックな代物だった。  最初にこの家に立ち寄った時、遥香の気配はどこにもなかった。それこそが彼女が訪れている証拠なのに、どこかにないかと探して瑛二は寝室に入った。遥香の痕跡はそこにあった。  残さない方がよかったのだろうかとわずかに思ったが、なかったことには、とてもじゃないができなかった。  優しくしていい。素直でいいのだ。瑛二にとってそれは甘い誘惑で、それでいてとても怖い落とし穴に感じた。  結局臆し、本棚に少しだけ変化を与えて出ていった。次に行った時には、圧縮袋に入れていたはずの布団が、ベッドにふんわりとかかっていた。  年始の挨拶で問われた時は、理由に窮した。すぐに言える答えを用意していなかったからだ。  だけど今日、思いがけず現れた遥香の存在感に、無性に嬉しくなった。嬉しくなってしまった。 「会えるもんなら会いてえっつーの……」  ずっと捩れ、歪み、奥に引っ込んだまま結衣子にも言えずにいた思いが、一人になった途端ぼろっとこぼれた。  瑛二はハッとして、押し戻すようにコーヒーを飲み、ダイヤモンドをもうひと粒口に含んだ。コーヒー豆と違って噛まずとも舌で溶けるそれは、あの日味わったぬかるみを思い出させた。 ※  二月も終わりに差し掛かっていた。瑛二のマンションの廊下を吹き抜ける風も、心なしか梅の香りを含んでやわらかい。ここに通って、二度目の春の気配がする。  遥香は瑛二の部屋の鍵をポケットから出し、差し込んだ。  チョコレートを置いてから二週間。残っていたら、持って帰って自分で食べようと決め、ドアを開けた。  コーヒーの香りがする。逃がすまいと、遥香は勢いよくドアを閉めた。  薄くなっていたはずが、上書きされたように濃くなっている。気のせいじゃない。 「――瑛二さん」  パンプスを脱ぎ捨ててばたばたとリビングに駆け込む。しかし中は、相変わらずしんと静まり返っていた。  いない――。  当然だ。一時帰宅をするだけで、まだ帰ってきたわけじゃない。だけど。  いたらいいのに。毎回、そう思ってしまう自分がいた。落胆に肩を落とした時、心臓が高鳴っているのに気がついた。  恐る恐るカウンターを振り返る。置いていったはずのものたちはなくなって、まっさらな状態になっている。  はあ、とため息を吐いてそちらに歩み寄った。書き置きも何もない。連絡も特になかったし、とコートのポケットからスマホを出す。  待受画面に、通知が一件届いていた。昨日共有した緊縛写真に、コメントがついた知らせだった。  息を吸い込み、遥香はアプリを開く。写真のコメントが入ったその一番下、『チョコありがとう、うまかった』と続いて、さらにスクロールした。 『まだ続くけど必ず戻るから、もう少しよろしく』 「……こんだけ?」  拍子抜けして、力も抜け、床の上にへたり込む。そこで今度は、苛立ちが湧いてきた。  もっと具体的になんかあってもいいんじゃないの。写真集の進捗とか、今どことか、元気かとか、今度いつ家に帰るとか。  でも、これまでに比べれば、結構な進歩だ。 「……帰ってきたら絶対文句言ってやる」  彼の存在感が増した部屋で、しかめっ面になって呟く。  しょうがない。そういう人だ。だからせめて、安心して戻ってこれる巣を守ろうと決めた。  それにここは、緊縛を本気で始めようと決意した場所で、自分の女王になると決意した場所でもある。綺麗にしていたい大事な居場所でもあるのだ。  まずは布団を干して、それから掃除だ。「よし」とひとつ呟いて気合いを入れ、遥香は立ち上がった。  期待している愚かな師匠に心を込めた甘いのを 了 ※このお話は、Kindle版『縄痕にくちづけを』に収録した作品です。 期間限定公開となります。
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