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小太郎と下がろうとしたお楽を重経は呼び止めた。
「何でございましょうか」
「殿の養女になった春姫のことだが」
「春姫様が如何なされました」
「春姫は、十四年前にそなたが生んだ長高の子だ」
驚きに、お楽の目が大きく見開かれる。
「……あの子は死んだと、あの時、そうおっしゃったではありませぬか」
「死んだと偽ったことは謝る。されど、これは致し方なかったことだ」
重経が説明するうちに、お楽の顔が険しくなっていく。
「お楽?」
目を見開き、うつむきがちの彼女に重経は半ば気遣わしげに声を掛ける。
「……生きて、おりましたか」
感情の籠もらぬ声で、お楽は言う。重経には、お楽がどう思っているのかわからなかった。
「会ってみるか」
「……今更、会って何になりましょうか。それに、あの子はわたくしが実の母と知っているのですか」
「いや、言うておらぬ」
「ならば、詮無きこと」
「会わなくて、良いのか」
「はい……」
「そうか。なら話は終わりだ。下がってよい」
未だに、お楽が何を考えているのか、重経には理解できないところがある。
「冷たい、女だ」
重経は思わず呟く。何度交わっても、何度言葉を交わしても、見えぬ壁が重経を拒むようで、二人の間の溝は深くなるばかりである。
しかし、嫡子である小太郎を生んでいるため、彼女を無下にするわけにもいかない。もし子がいなければ、今頃彼女を遠ざけていたことだろう。
「春姫を風宮へ行かせようか……」
思考を切り替え、重経は策を講じるのであった。
自室に戻ったお楽は一人きりになると、ぼんやりと空を見上げた。梅雨の時期には珍しく、晴天が広がっている。その空を、お楽は生気の失せたような目で見ていた。
つうっと、一筋の雫が頬を伝った。そのとき、僅かにお楽の口が動いたが、何かを呟いたのかはわからなかった。
「母上」
はっとして声のする方を見ると、小太郎が心配そうに此方を見ている。
「どうなさったのですか」
「何でもないの」
お楽は笑顔を作ると、小太郎を抱き寄せた。さっきまでの顔と打って変わった、穏やかな優しい母親の顔であった。
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