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第一部 第五章 策略
お春が政高の養女になって、一月程が経った。日差しは熱いが、時折吹く風が心地良い。
書庫でお春は基高から、今日も真名を教わっていた。
「春姫は覚えが良い。もう、ここまで読めるようになるとは」
「基高様の教え方がお上手だからです。誠に、ありがとうございます」
「春姫は、重経から剣術も習っているとか。筋が良いと聞いております」
「楽器の演奏や和歌より、そちらの方が性に合っておりますゆえ」
「仲松がよく許しましたな」
「最初は猛反対でしたが、結局逆らえなかったようで」
仲松は、かつて公家の出身であったお浦の生母・広野殿が輿入れする際に随行し、以来彼女に仕えた。広野殿の乳母子ということもあり、最も信頼された侍女である。
お春とお浦を、慶倫寺の和尚のもとへ送り届けたのも彼女であった。
家督争いの後は、その才と教養故に引き続き暁家の奥に仕えた。そして、お春とお浦が政高の養女となると、その教育係となったのである。
基高は書物を閉じると、少し改まった口調で言った。
「春姫は、これからどうなさるのですか」
「どうする、とは?」
首を傾げて、お春は基高を見る。
「楽器や和歌を習うより、剣の稽古の時間の方が長いのではありませぬか? 噂ではございますが、重経は春姫を戦で使おうとしているとか」
「そうなのですか?」
「ええ……」
お春から目を逸らし、庭の青々と茂る草木をみる。初夏の風が木々をなで、涼しげな音を立てる。
「このままで良いのですか? 嫁ぎ、子を生み母となるのが、女子の幸せではないのですか」
「わたくしは……」
お春は目を伏せ、少し考える素振りを見せる。
「別に嫁がなくても良うございます。わたくしには、女としての教養はありませんし、そもそも、嫁ぎたいと思うたことも、憧れもありませぬ故」
「そう、ですか……」
基高は何と返して良いか分からず、うなずくだけだった。
「良き妻、良き母として生きるだけが、女の幸せなのでしょうか」
「私には、何とも……。それが女子の幸せだと、思うておりました……」
涼風が二人の間を通り過ぎてゆく。
「私はこれから稽古がありますゆえ、続きはまた明日」
「はい。ありがとうございました」
基高は足早に立ち去った。その後ろ姿が見えなくなっても、しばらくその場に留まり考え込む。このままで良いのかと、聞いてきた基高の言葉が引っ掛かっているのである。
そう問われても、今のお春には、重経や政高の命令に従う他ない。ましてや、この現状を嫌と思うたとしても、それを変える術はない。
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