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序章 桜吹雪
暖かな春の日差しが降り注ぐなか、縁側で尼僧が桜を眺めていた。既に、齢六十を過ぎてはいるが、年の割には少し若く見える。
その傍らに、切れ長の目をした七十近くの男が控えている。この年でも美男であることがよく分かる、整った顔立ちをしている。
「今年も桜は美しいですね」
「誠に、さようでございますな」
時折吹く風が、花びらを散らす。尼僧は、自分の膝に舞い散る花びらを手で受けながら言った。
「お春が亡くなってから何年経ったのでしょう」
「十五年ほどに、なりましょうか」
「そうですか……。もうそんなに経ちましたか」
ため息まじりに、つぶやくように尼僧は言う。
「お春が亡くなってから、何もかもが早ようございました。皆、まるでお春の後を追うようで……」
「御前様。我らは殿の家臣であった者。殿が身罷られたために、この世での役目を終えたのです」
男は一息つき、
「某は三度、主を代え申した。仕えた主は、もうこの世におりませぬ」
「この世での役目は果たしたと、そう申されますか」
男は僅かに首を縦に振る。尼僧は、彼から桜に視線を移す。
「寂しゅうございますなぁ、長い付き合いの者が逝ってしまうのは」
誰にともなく寂しそうに、微笑をうかべながら尼僧は言う。
「某は、楽しゅうございました、殿にお仕えするのは」
「まぁ、誠ですか。あのじゃじゃ馬に仕えるのが」
尼僧は笑いながら、彼を見る。
「殿は、何とも不思議なお方でございました」
「女子であって女子でない。それが、人を惹きつけたのでしょうか」
男はふっと微笑を浮かべ、つぶやく。
「桜のような、お方にございました」
突如、強い風が吹き、花びらが二人方へ舞った。二人は咄嗟に袖で顔を覆う。
「殿……?」
桜が舞ったその刹那、男は桜吹雪のなかに、亡き主の姿を見たような気がした。
風が収まったときには、既にその姿はなく、桜が舞うだけであった。
見間違いであったのだろうか。男が主を見た場所には、ただ、花が散るだけ……。
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