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「どした兄ちゃん?」
汗を拭き終えた男はタオルを肩にかけ、俯くリオを見遣る。リオは苦悶の表情で両の掌に目を落としている。
「何かわけありみてえだな」
男は水を入れようと紙コップを新たに取り出し、タンクの蛇口に手を伸ばした。
「…何も」
蛇口に手を伸ばした男の動きが刹那止まる。
「名前と少しの記憶以外…何も」
男は蝉の声を遠くに聴きながら、ぼんやり口を開けたままリオの方を振り返った。
「何も…の後は何だ?」
微かに険しさを滲ませて男が問う。
「…思い出せない」
拘留所で目を覚ます前はおろか、幼少期からスキップしたように記憶だけが抜け落ちていた。リオは苦い顔をしたまま小さく溜息をつき、男はしばらくリオの様子を見ているしかできなかった。
「―そう落ち込むな兄ちゃん、そういうのは時間がかかってもちゃんと戻るって聞いたことあるぜ」
半ば無理のある励まし方で笑い、男はリオの背中を叩いた。ばしばしと景気のいい音が響き、少し痛いくらいに叩かれたリオは軽く呻いて男の方を見る。
「何す…」
「生き方忘れなきゃやってけるもんだ。若えんだし俺よりずっと時間は沢山あるだろ?少しくらい山があった方が人生楽しいぞ!」
男はひとしきり笑うと紙コップに水を入れ、リオに差し出した。
「まあこれも何かの縁だ。俺でよけりゃ力になるからよ、存分に山登りな!」
リオは少し目をしばたたかせて男と水を交互に見遣り、躊躇い混じりに水を受け取った。
「…どうも」
気にするなと軽く笑い、自分の分の水を汲みながらリオに尋ねる。
「そういや兄ちゃんの名前聞いてなかったな。名前は覚えてるんだろ?俺は志島勇蔵ってんだ」
年相応の名を持つ男は自ら名乗り、リオの返事を待つ。
リオは手にしたコップの中の水を飲み干し、十分に喉を潤してから自らの名を口にした。
「水井リオ」
じゃあリオの兄ちゃんだなと工夫も何もない呼び名を決め、志島は水を一気に飲み干した。
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