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富士商会初の慰安旅行は、土・日にかけての一泊旅行として発表された。思いもかけぬ朗報に、全員が感嘆の声を上げた。更には、鉄道の一等客車を利用するという声に、蜂の巣を突付いたような騒ぎとなり、その日一日笑い声が絶えなかった。
「死ぬまでに一度は、乗りたいと思っていた一等車か……。よおし、その日までは、何があっても生きなきゃな」
「何だ、そりや。その後なら、死んでもいいってことか?」
「お洋服、新調しなくちゃね。何せ、一等車だもの」
「そうね、そうよね。奮発して、デパートで買わなくちゃ」
「熱海だなんて、嬉しいわ。貫一・お宮の舞台なのよね」
「温泉に入るの、楽しみ。然も、熱海一の旅館なんでしょ?」
当日は、それぞれに新調した服を着込んでの出発となった。ゆったりとした座席に陣取った一行は、他の乗客達のひんしゅくを買う程にはしゃぎ回った。眉をひそめる五平に対し、武蔵は「今日は、大目にみてやれ。乗客には、俺から謝るさ。次の停車駅で、何か買ってきてくれ。お客さんらにそれを配って、辛抱してもらうよ」と、取り合わなかった。
熱海に到着した頃には、そろそろ日も暮れ始めていた。駅舎から出た一行を出迎えたのは、[富士商会御一行様]という幟だった。番頭らしき初老の男と二人の仲居が、満面に笑みを浮かべていた。総勢五十人程の大所帯ということもあり、路線バスを借り切っての迎えだった。
「長旅、お疲れ様でございました。さあさあ、どうぞ。なあに、ほんの五分程で着きますです」と、揉み手をしながら誘導した。
「世話になりますよ」と、五平が最後に乗り込んだ。
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