(十八)

1/1
1人が本棚に入れています
本棚に追加
/137ページ

(十八)

 朝鮮特需の好景気が去り、中小企業の倒産が目立ち始めてきた。順調に業績を伸ばしていた富士商会にしても、少なからず影響を受けた。しかし先年の教訓を活かした武蔵の手腕と共に、新しい販売方法のお陰で軽微なものに済んでいた。しかし武蔵の気性からして、焦げ付きを黙然と看過する訳ではなかった。容赦ない債権回収は、相変わらずだった。お構いなしに、夜中にトラックで乗り付けては品物を引き上げにかかった。 “富士商会の引き上げ後には、ぺんぺん草も生えていない…”と、他社から怨嗟の声が上がったのも、一度や二度ではなかった。しかし、情け容赦ない回収ばかりではなかった。再生の見込みがあると判断とした折には、他社の債権を肩代わりすることもあった。それもあって、富士商会との取引を望む問屋は引きも切らなかった。 “富士商会が取引している問屋ならば、安心だ” そんな声もまた、聞かれていた。  久しぶりの銀座だったが、界隈の人通りもめっきり少なくなっている。見ることのなかった、女給達の呼びかけに閉口する武蔵だった。足早に歩きながら、キャバレーへと逃げ込んだ。 「社長! あたい達を殺す気かい!」  梅子から、手荒い歓迎を受けた武蔵だった。 「いゃあ、すまん、すまん。貧乏暇なしでなぁ、飛び回っていた。今夜は、罪滅ぼしに、パッと騒ぐぞ」 「ホントだね? 女たち全員を呼ぶよ、社長の席に」  満面に笑みを湛えて、梅子が武蔵にしな垂れかかってきた。梅子のそんな仕種は、ついぞないことだった。 「ああ、いいとも。但し、不足分は梅子の奢りにしてくれよ」  武蔵は無造作に懐から札入れを取り出すと、そのまま梅子に渡した。分厚い札入れを手にした梅子は、「ああ、いいともさ。月末にでも、集金に行くから。で、幾ら用意してきた?」と、中を確認した。 「ほぉ、社長! 豪気だねえ、こりゃ。拾萬円は入ってるじゃないか! いや、もっとかい? みんな、今夜は騒げるよ!」  武蔵の元に、あっという間に十数人の女給達が集まった。店内を見渡してみると、確かにまばらな客であった。中央のホールでは、数人がダンスをしているだけだった。良く見ると、女給だけのダンス姿も見られる。 「なんだ、ありゃ……」  往時を知る武蔵にとって、信じられない光景だった。 「仕方ないよ、社長。みんな、暇なんだからさ。それに、淋しいだろうが、ホールがガランとしてちゃ。だから女二人ででも踊ってるのさ。社長、久しぶりに踊るかい?」  梅子が、肉付きの良い女給を指差した。 「珠子、と言うんだ。この間入った娘でね、まだ未通娘だ。社長はグラマーな娘が好きだろう?」  武蔵がホールに立つと同時に、音楽がマンボに変わった。戸惑う武蔵を尻目に、珠子がリズム良く踊り始めた。少しの間立ち竦んでいた武蔵だったが、見様見真似で踊りだした。そのぎこちない動きに、其処彼処から笑いが起きた。  そんな中、客席ボックスの間でにリズムを取っている娘が居た。タバコの入った籠を大事そうに抱えている娘に、武蔵の視線はくぎ付けになった。未だ少女の面影を宿しているその娘は、武蔵の好みとは無縁だった。スレンダーな体付きで、骨張って感じられた。しかし涼しげな目が、武蔵を捉えた。汗だくになりながら戻ってきた武蔵に、五平が声をかけてきた。 「どうです、社長。いい娘でしょ? あたしが話してた娘です」 「うん…どの娘のことだ?」  武蔵は、とぼけて聞き返した。 「ほら、あのタバコ売りです。今、呼びますから」と、手招きした。 「ありがとうございます、おタバコですね」  手持ち無沙汰にしていた、タバコ売りの娘がやってきた。五平は、うんうんと頷きながら、「この間から話してる、お方だ」と、武蔵の傍に立たせた。 「名前は、何て言うの?」 「はい、小夜子と言います。」  武蔵と小夜子との運命の出会いだった。  しかし小夜子は、武蔵に対して良い感じを持たなかった。値踏みをするように小夜子を見つめる武蔵の目に、何か卑野なものを感じていた。細面で端正な顔付きをしているが、人を小馬鹿にするような目つきが嫌悪感を抱かせた。 「小夜子ちゃん、か…。歳は、幾つかな? 英会話の勉強をしてるんだって? どう、少しは話せるようになったかな?」  矢継ぎ早の質問に対し、小夜子は愛想笑いをかかすことなく答えた。 「年齢(とし)は、十七です。会話が通じるかどうかは、外での会話がないので、正直のところは分かりません。一応、学校でのジョーンズ先生との会話は成り立っていますけれど。早口で会話されると、未だ聞き取れないことがあります」  うんうんと頷きながらも、武蔵の視線は小夜子の全身を、舐めるように見ていた。 “なんて、失礼なの! 目線を合わせての会話が、常識でしょうに!”  次第に、小夜子の表情に険が現れた。 「こりゃ、申し訳ない。初対面の女性に対する態度じゃなかったな。こんな店に、君みたいな若い女性がいることが、珍しくてね。ごめん、ごめん。ここにお座んなさい。支配人には、私から言っておく」  そう言いながら、武蔵が五平に目配せをした。五平は梅子と共に、席を立った。 「でも……」  顔を曇らせながら、小夜子は席に着くことを躊躇った。武蔵との接触が、この先の己に災いを及ぼさせるように感じた。殆ど直感のようなもので、漠然とした不安感を感じた。 「いいから、いいから。私と付き合って、損はないよ。別に、取って喰おうと言う訳じゃないんだ」 武蔵は席を立って、小夜子を無理やりボックスの中ほどに座らせた。珠子と武蔵に挟まれる形になってしまった小夜子は、女給たちの鋭い視線を一身に浴びた。 「こら、こら! そんなに睨むんじゃないぞ。怖がってるじゃないか」  武蔵の言葉に、女給たちは肩をすぼめた。 「わたし、タバコ売りの仕事がありますから……」 「買うよ、全部。それだったら、良いだろう?」  懐から財布を取り出そうとした武蔵だったが「しまった! 梅子に預けてしまったんだ。ま、いいさ。戻ってきてから、払うことにする。で? 英会話を勉強して、どんな仕事をするつもりなのかな?」と、小夜子の目をしっかりと捉えてきた。その射るような目に、小夜子は少したじろいだ。 「仕事って…、そうじゃなくて、アーシアと…」  小声で呟くと、小夜子は俯いた。  武蔵の視線に、耐えられなくなってしまた。 “仕事?…そう言えば、何をしたいんだろう? アーシアと一緒に世界を旅するだけのつもりなの、あたしは? だけどそれじゃあたしって、犬のイワンの代わりじゃない! そんなの、だめよ” “そうよ。あたしは、アーシアの妹になるの。だから、あんな田舎に居ちゃだめなの。アーシアの妹にふさわしい、新しい女性にならなくちゃ”  英会話の勉強、というのは、唯の口実のように思えてきた。田舎から抜け出す為の口実のように、思えてきた。 「悪かった、悪かった。年端の行かぬ君に、そんな先のことまで考える余裕は無いかもしれんな。勉強をしたい! その気持ちだけで、十分だろう。おい! この娘さんに、ジュースでも持ってきてくれ」 「もらってきまーす」  端に居た女給が、すぐに立ち上がった。 「社長! 言ってきました。その娘の仕事は、もう終わりです。いつ帰っても、良いんだからね」  戻った五平が、小夜子に優しく声をかけた。 「おう、分かった。梅子! この娘さんに、チップを渡してやってくれ。いゃ、いい。五平、札入れを出せ」  五平の札入れから、無造作に三枚の紙幣を取り出すと、小夜子の手に握らせた。 「こ、こんなに沢山は……」  逃げ腰になる小夜子に、武蔵は 「気にしなくていい。それより、お腹は空かないかな? 鮨でも、つまみに行こうか。梅子、お前もどうだ?」と、畳み掛けた。 「あたしは、無理だよ。店がはねたら行くから、先に行っててよ。小夜子ちゃん、うんとご馳走になりなさい。大丈夫! この社長はね、女癖は悪いけど、ネンネは相手にしないから。梅子姉さんも、後で必ず行くから」  武蔵の意図を知る梅子は、不安げな表情を見せる小夜子に声をかけた。 「いいなあ、私も行きたーい!」  口を揃えて、他の女給たちが声を上げた。 「お前たちが来ると、店がうるさくてかなわん。この次に、ご馳走してやるよ。今回は、梅子だけで良い。さっ、それじゃ出るか」  武蔵が立ち上がると同時に、珠子が小夜子の背を押した。 「きっと、ですよ。きっと、来てくださいよ」  すがるような表情で、小夜子は梅子を見た。 「分かってる、って。心配ないよ、小夜子ちゃん。社長は、優しいから。安心して、お任せしなさい」  小夜子の肩を抱きながら、耳元に梅子が囁いた。  小夜子の不安は、杞憂に終わった。  カウンターに陣取った小夜子の前に、初めて見るネタの鮨が並べられた。鮨と言えば、巻き寿司や散らし寿司を思い浮かべる小夜子だった。白身魚やらひかり物、そして貝類に海老と、食べ終わらぬ内に次々と並べられた。驚いたのは、数の子が出てきたことだ。お正月に食べた記憶はあるが、ここ数年はお目にかかっていない。更には、うに・いくら、そして白子と、続いた。 「何と言う名前ですか?」  並べられる度に、小夜子は店主に問い掛けた。仏頂面の店主も、目を輝かせて頬張る小夜子にだけは、相好を崩して一つ々々丁寧に答えた。 「親爺さん、今夜は機嫌がいいねえ」 「若い娘さん相手だと、そんな顔をするんだねえ」  そこかしこから、冷やかしの声がかかった。 「当ったり前だぁな! むさ苦しい野郎に、とっておきの顔なんだ。見せられるけぇ、てんだ!」  一気に、店内が盛り上がった。武蔵は、にこやかな表情を見せながら、盃を重ねた。 “なるほど。五平の目も、今回ばかりは確かだったな。まだ、純な娘じゃないか。俺好みの女に仕上げる楽しみがあるぞ、これは。そろそろ、俺も身を固めてもいい頃だろう”  満足げな表情を見せる小夜子に、武蔵は 「おう、もうこんな時間か。どうだい、満足したかな? それじゃ、送っていこうか」と、腰を上げた。 「梅子さん、待ってなくて良いんでしょうか?」  怪訝そうに問い掛ける小夜子に対し、武蔵は笑って答えなかった。 「親爺、いつものようにな。それじゃ、ご馳走さん」  待たせていたハイヤーで小夜子を送り届けた武蔵は、“ふっ! 俺としたことが、何もせずに送り届けるとはな……”と、自嘲気味に呟いた。  そのままクラブに戻った武蔵は、訝しがる五平や梅子に、 「なんだ、なんだ、その目は。あんな小娘をどうかするとでも、思っていたのか。今晩の相手は、珠子に決まってるだろうが!」と、珠子を呼び寄せた。他のボックスに居た珠子だったが、すぐに武蔵の元にやってきた。 「おゝ、珠子! 淋しかったぞ!」と、大げさに声を上げて珠子に抱きついた。 「うれしぃぃ!」と、珠子も又武蔵の背に手を回した。珠子の豊満な胸が、武蔵の欲情に火を点け、「店が終わったら、付き合うんだぞ。今夜は寝かさないからな」と、耳元で囁いた。  珠子を離した武蔵は、梅子に 「おい、梅子。あいつのどこが、未通娘なんだよ。思いっきり、淫乱の気があるじゃないか」  と、軽く睨みつけた。梅子は、澄まし顔で答えた。 「この店では、まだ未通女だわさ。誰も、手を付けてないんだから。それより、どうしたのさ? 振られたのかい、あの娘に。珍しいこともあるもんだね」 「いやいや、どう致しまして。これからさ、あの娘は。じっくりと、構えるのさ。まだ、ネンネだなからな。五平、気に入ったよ」 「武さん! 伴侶にしなよ。一、二年もすりゃ、いい女になるって」  得意満面に、五平が答えた。 「そうだな、考えとくよ。梅子、悪い虫が付かないよう、監視しててくれ」 「あいよ! 任しときなっ。社長、本気なんだね? 一時の気の迷いだった、なんて言わないでおくれよ」 梅子は、真顔で武蔵に言った。
/137ページ

最初のコメントを投稿しよう!