(二十)

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(二十)

 日曜の夜、小夜子は加藤夫妻と対峙した。  こんな事態を望んだわけではなかったが、武蔵の元に身を寄せる為には避けて通れぬことだった。 「短い間でしたが、本当にお世話になりました。改めてお礼方々、ご挨拶に伺わせていただきます」  畳に頭を擦り付けて、小夜子はお礼の言葉を述べた。突然の小夜子の申し出に、加藤は驚くだけだった。奥方は女の勘とでも言うべきか、小夜子の微妙な変化に気付いてはいた。しかしまさか加藤家を辞することになるとは、思いも及ばなかった。加藤からの援助を懇願してくるもの、と考えていた。 「考え直さないかね。都会での一人暮らしは、色々と問題が多いよ。茂作さんだって、許さんだろうに。第一、生計は成り立つのかね。茂作さんからの仕送りを期待しているのなら、それは無理だよ」  困惑顔で、加藤は小夜子に翻意を促した。「そうですよ、小夜子さん。宅の言う通りですよ、ご実家にお帰りになると言うのならまだしも……。でもまあ、決心は固いみたいですね」  奥方は口でこそ小夜子を引き留めるが、その目の中には“厄介払いが出来る”と、安堵の色が見えた。 「ご心配をおかけしまして、申し訳ありません。でも一人暮らしと言いましても、会社の寮に入りますので。学校に通いながら時間の空いた時に、事務のお手伝いをさせてもらうことになっております。卒業後は、その会社で通訳のお仕事をさせて頂けることになりました」  凛とした小夜子の態度に、加藤は驚いた。上京したての、おどおどとした態度が微塵もない。それどころか、自信に満ちた表情を見せている。 “何があった、と言うのだ。まさかとは思うが、正三君との間に何か約束事でもあるのか?”  加藤は小夜子の顔をまじまじと見つめながら、「その、なんだ。正三君とは、連絡を取り合っているのかね?」と、問い質した。 「いえ……。正三さんには、まだお話をしていません。それでお願いなのですが、もし手紙が届きましたら、この会社宛に転送して頂きたいのですが…」  と、武蔵に渡された名刺を、加藤の前に差し出した。 「なになに。雑貨品卸業 株式会社富士商会 代表取締役 御手洗武蔵 この方が…。通訳とか言ったね? 貿易関係の仕事でもなさそうだが、どういうことかね?」  舐めるように名刺を見ながら、加藤は怪訝そうな表情を見せた。 “クラブの客だろうが、まさかパトロンではないだろうな” “正三ではなく、この御手洗某にそそのかされたのか” “年端も行かぬ小夜子を蹂躙するのか!”と、怒りの思いが昂じ始めた。加藤の頭の中を、そんな思いが駆け巡った。 「小夜子ちゃん。もう少し考えてみては、どうかね? その、なんだ…。どうも胡散臭さをだね、おじさんは感じ……」  小夜子は加藤の声を遮るように、武蔵に教えられた通りに淀みなく答えた。 「ご懸念はご尤もですが、GHQ相手のご商売をされています。これからは、貿易品も手掛けられるとか、仰っています。で、通訳が必要になるとかで。 後日に、社長がご挨拶に伺いたいと申しておりました」 「まあまあ、そうなの。GHQがお相手ならば、しっかりした会社なのね。 あなた、心配するような事じゃありませんわよ。それは、良かったわ」  奥方の言葉によって、やっと小夜子は解放された。
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