(二十三)

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(二十三)

「お父さん、お茶にします? それともコーヒーでも飲みます?」  小夜子は武蔵をお父さんと呼ぶことにしていた。 「あなた、はダメか?」と、武蔵がおどけてみせたが「ダメ! お父さんなの。それとも、以前のように社長さんにする?」と、言い返されてしまう。 「分かった、分かったよ。社長では他人行儀すぎる。それでいいよ」と、矛を収めざるを得なかった。  小夜子の差し出すコーヒーをすすりながら、 「うーん、美味い! 小夜子も上手になったな。初めの頃は、薄かったり濃かったりと、とてもじゃないが飲めた代物じゃなかったがな」と、相好を崩した。 「そりゃあ、そうよ。愛情たっぷりの、コーヒーだもの。あっ、愛情と言っても違うからね。変な風に取らないでよ。お父さんに対する、愛情だからね」 「それを言うか、小夜子は」  快活に笑う武蔵に、小夜子は 「そうよ、そうなの! お父さんは助平だから、勘違いされたら困るもんね」と、念を押してくる。 「ねえねえ、この間買い物をしてたらさ。ふふふ…『奥さん』って、言われちゃった。参っちゃうわ、ほんと。『お嬢さん、何にします? あぁ、ごめんよ。御手洗さん家の、奥さんだったねえ。どう? 新婚生活は。優しくしてもらってるかい?』ですってぇ」 「なんて答えたんだ? 小夜子は」 「ふふ…内緒よ。ふふふ……」  少しはにかんだ表情を見せながら、小夜子が甘えたような声で言った。 「気になるじゃないか、その言い種は。言えょ、言わなきゃこうだぞ!」  武蔵は両手を大きく広げ、襲いかかる熊の仕種を見せた。 「きゃあ、イヤだ!」と、慌てて小夜子は立ち上がった。逃げ惑う小夜子を、何度も雄叫びを上げながら追いかけた。 「怖いよお、お家の中に助平熊が出たよお! 誰か、助けてよお!」 さながら鬼ごっこの如くに、家中を駆け回った。  廊下に飛び出した小夜子は、台所から玄関そして二階へと駆け上がった。 「どこだ…どこだ…美味そうなウサギはどこに逃げた!」  小夜子は声を殺して、階段の途中で武蔵を待った。ウキウキとした気分で、大きく両手を上下させる武蔵を見つめた。 “ほら、ここよ。ここに居るわよ。どうして外に行っちゃうのよ!”  玄関の戸に手を掛けようとする武蔵を見た小夜子は、慌てて階段で足踏みをした。 「うん? 音がしたぞ。……どこだ? どこからしたんだ、階段だったかぁ?」  武蔵はキョロキョロしながら、階段に目を向けた。  満面に笑みを浮かべる小夜子を見つけた武蔵は 「おぉ、居たぞ! ガオォォ! 見つけたぞぉ!」と、のっそりと体を入れ替えた。 “キャッ、キャッ!”と声を上げながら、小夜子は階段を駆け上がった。武蔵は、獣のように階段に手を掛けながら「逃げられんぞ、逃げられんぞぉ!」と、ゆっくりと登った。  小夜子は奥の部屋に入り込むと、息をひそめて武蔵を待った。 「この部屋か、居ないぞお! どこだ、階下(した)に、逃げたかのか……」  呻くような武蔵の声が、小夜子に耳に届いた。まるで子供のように、小夜子の鼓動が早くなった。ワクワクとしていた。 “ここよ、この部屋よ。ここに、居るよ”  ギシギシと廊下の鳴る音がすると、小夜子の心臓は早鐘を打ち始めた。 「一階か。待てよ、もう一つ部屋があるぞ。物置の部屋があるぞ」  武蔵の廊下を這いずる音が、小夜子の耳元に届いてきた。 “来る、来るわ。どこ? どこに隠れればいいの……”  部屋を見回すと、古びた机がある。富士商会を起ち上げたときに古道具屋で買い求めた机で、一部剥げかかっておりささくれだった所もある。そしてその横には、一組の布団が積み上げてある。月に一度、起ち上げ時の志を忘れぬ為にと、この部屋で就寝することにしている。  襖に手がかかり、今にも開けられそうになった。小夜子は慌てて、布団を被った。 「おおっ、ウサギちゃんの匂いがするぞ。どこだあ、どこだあ」と、武蔵が入って来た。 「ここか…、うん、居ないぞ。それじゃあ、この机の下か? いや、居ない。おかしいぞ、おかしいぞお。匂いがするのに、見つからんぞお」  布団の中で、小夜子は笑いを噛み殺していた。部屋をうろつく音がするが、中々布団には近付いては来ない。 「おかしいぞ、おかしいぞお。逃げられたかあ、どこだ、どこにいる」  思わず、クククと、小さく笑い声を上げてしまった。 「うん? 声がしたぞ。どこだ、どこからだ!」  クンクンと声を挙げながら、部屋をうろつく音がする。畳を膝でこする音が響いている。小夜子の心打ちに、武蔵を待つ思いが湧き始めた。幼い頃に遊んだかくれんぼが思い出される。大きく伸びた草むらの中に上手に隠れたが為に、とうとう最後まで見つからずにいた小夜子は、「ごはんよー!」という声で帰ってしまう幼女たちに向かって「ここよー!」と叫ぶ。しかしもう、誰も応えることなくそれぞれの家へと帰ってしまった。一人残された小夜子を迎えに来てくれる母はいない。父もいない。祖父がいるだけだ。  初めて、かくれんぼをしている小夜子を、最後まで、見つけるまで探してくれる相手を見つけた。迎えに来てくれる相手を見つけた。かくれんぼが、これほどにワクワクするものだと初めて知った小夜子だった。一人取り残されたあの日以来、一人遊びに夢中になった。祖父である茂作が探してきてくれた小倉百人一首を、ひとり黙々と並べては上の句を読み上げては下の句を探した。  突然、小夜子の太ももに武蔵の手が触れた。思わず小さな悲鳴を上げた途端に、武蔵が布団の中に潜り込んできた。逃げ出そうとする小夜子を、武蔵はしっかりと抱き止めた。 「見つけたぞお、やっと捕まえたぞお! さあ、どこから食べるかな。この腕か、それとも太ももかあ……」  一瞬間、小夜子は声を失った。背筋に電流が走り、頭や手足に向かって広がった。 “なに、なに……なんなの、これって!”  一気に世界が変わった。アンデルセンの世界にどっぷりと浸っていた小夜子が、うっかり踏み入れた世界は、金瓶梅の世界だった。エロスの世界だった。武蔵が意図したわけではなく、小夜子も望んだわけではない。かくれんぼの筈だったのだ。武蔵も童心に帰っての、遊びのつもりだったのだ。  一瞬間、小夜子の体は硬直した。心音だけが、早鐘のように鳴り響いていた。 “ど、どうなったの……どうして、どうして!”  武蔵の腕の中にすっぽりと収まっている小夜子に、南国の風が吹いてきた。「小夜子……」。その言葉と共に、唇を重ねられた。正三との接吻はレモンであり、武蔵とのそれはさながらマンゴーだった。  「だめ! これ以上は、だめ、だめなの……」  涙声の小夜子に、これ以上の無理強いはまずいと考えた武蔵は、「すまんすまん、遊びが過ぎたな。けど、美味しい接吻だった。ご馳走だ、ご馳走だあ!」と、明るく笑いながら布団を跳ね上げた。  翌朝、台所から小夜子の明るく弾んだ声が聞こえてきた。布団の中でまどろむ武蔵の耳に、心地よい。 「いゃあねえ、三河屋さんったら。何もないわよ、なにも。えっ? 声が弾んでるですって? そりゃ、体調がいいからよ。えっ? 何か始めたかって? ふふふ…、ひ、み、つ。なーんてね。今ね、着物を新調してるのよ。それを着てね、パーティに出席するの。アメリカ将校さんのお宅でね。うーん、会食みたいなものかな。女優さんみたいでしょうねって、ふふふ、そんなこと。口がうまいのよね、三河屋さんは。だめよ、これ以上は要らないわ。じゃ、お願いね」  時計を見やると、七時を回っている。  「おっと、こりゃいかん。寝坊してしまった」 慌てて飛び起きると、「おゝい、小夜子お!」と、呼んだ。 「まずい、まずいぞ。社長の俺が遅刻なんて、示しがつかん。小夜子お!」  何の返事もないまま、どかどかと階段を下りた。 「どうしたんだ、小夜子。」  快活にしていた小夜子が、椅子に座ったまま無言でいる。 “どうしょう、どうしょう、起きてきちゃった。あ、あ、何にも出してない”  恥ずかしさから、まともに顔を見られない。不機嫌そうな顔でなければ、体裁が悪い。 「小夜子、すまん。遅刻しそうだ。飯は、今朝はいい」  武蔵は、小夜子の不機嫌さにまるで気付かない。 「そう。あたしのご飯は食べられないの、いいですよ。どこかで、おいしいものをお食べください」 “良かった、助かったわ。一緒にご飯は、今朝はちょっと” 「分かった、分かった。帰ってから聞くよ」  バタバタと出かけた武蔵だったが、玄関先で小夜子を呼ぶ。何ごとかと慌てて駆け付けると、「小夜子、お出かけのおまじないをくれ」と、言いだした。キョトンとする小夜子に、「ほら、この間観た映画でやってたろうが。ほっぺに、チュッだよ」と、ほほを向ける。  ためらう小夜子に、「ホラホラ!」と小夜子の口元に頬を突き出して、急かす。勢いに押され、軽く触れた。 “武蔵ったら、何をさせるのよ”と、顔を赤くする小夜子だ。しかしこの些細なことで、小夜子の気持ちがいっきに明るくなった。 ♪ふんふん…ふーん♪と、流行歌を口ずさみながら、いそいそと家事に勤しむ小夜子がいた。 “今日はどうしょっかな? 英語学校、休もうかな? 最近お掃除、手抜きしちゃってるものね。千勢が居なくなってから汚くなったなんて言われたら、いやだし”  それにしても不思議なもので、家事が苦手な筈の小夜子が、今は嬉々として勤しんでいる。掃除洗濯は勿論のこと、いつ帰るとも分からぬ武蔵の為に夕食を用意していた。 “将来の為よ。正三さんに、美味しいものを食べて頂く為の練習よ。ちがう、ちがう。アーシアに和食を食べさせるためなの。ホテル住まいばかりじゃなくて、どこの国でもいいから……そうね、やっぱりアメリカかしら。お家を買うの、お庭の付いてる。そこであたしが待ってるのよ。疲れて帰ってくるアーシアに、美味しい和食をたくさん……は、だめなのよね。いいわ! 少しの量で、たくさんの種類を用意してあげるの。とにかく、お野菜とお魚と、そしてたまにお肉。  そういえば、アーシアって、お肉は全然口にしなかったわ。だめなのかしら? 食べちゃ。嫌い、ということはないわよね。あゝ、早く会いたいわ。会いたいと言えば、正三さん、どうしたのかしら?”  矛盾を矛盾と感じない小夜子だ。正三とアーシア、同一人物かのごとくに思っている。 「正三さんとかいう彼と所帯を持って、アーシアと一緒に世界を回ればいいじゃない」  前田が無責任に言ったその言葉を、真に受けている。 “大丈夫、正三さんなら。きっと分かってくれるわ”  しかしその正三からの連絡は、未だにない。彼是、ふた月近くが経っている。 “あの情熱的な恋文は、何だったの…… “やはり、心変わりしたのかし……” “それとも、加藤家の方が……”  色々思い巡らせてみるが、驚いたことに小夜子の気持ちの中に、嘗て程の焦りは浮かんでこなかった。小夜子の胸は、さ程に痛むことはなかった。加藤家で世話になっていた折に感じた焦燥感が、まるで湧いてこなかった。 “正三さんを信じているもの”  己自身に言い訳をしてみるが、熱情が薄れ始めたことを認めない訳にはいかなかった。 しかしそれでも、正三に再会すればすぐに復活すると言い聞かせていた。 “正三さんじゃなきゃ、だめなのよ。アーシアと一緒に暮らすためにも”  あくまで、アーシアなのだ。アーシアとの生活が全てで、その為の現在なのだ。
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