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彼はナイフを放棄してくれた。
きっと諦めたのだ。ナイフで自分の生死を決定するのを。彼にとっては希望でなくて絶望かもしれない。「ナイフじゃ絶対ということにはならないんだ」と悟ってまた少し陰りを増した目が、ぽつねんと宙を眺めていた。
「おれの命を生きたい人にあげられたらいいのにね」
内向的でも優しくて、多少は正義感がある人だった。
いつの間にかその心の強さで自分自身に厳しく当たることになり、痛めつけていた。
道に迷った人に道を聞かれたものの上手く答えられないまま別れた時、激しく後悔していた。人に席を譲りたいと思っても話しかけられなくて、「どうせ次でたくさん人が降りて空くだろう」と言い訳を付ける自分を蔑むようになっていた。
今は外に出ることもできないから、そんな思いを新たにすることはない。けれども時々思い出しては頭を抱えている。
「心はあげない方がいいと思うけれど。もっとも、臓器くらいしかあげられないだろうけど」
当然だろう。
彼の個性だとか存在性のようなものを決める肝心な部分は誰にも移植できない、彼だけのものだ。
「そりゃそうだよね」
「ん?」
「アイデンティティは移植できないんだもの」
「……」
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