ファムファタルの沼

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 生澤は純粋なのだと思う。だから私が高校生のつまらない沼に落ちていることも、その向こうに、ぼこぼこと煮えたおそろしい沼があることも知らない。綺麗すぎる。私には眩しくて、腹が立つ。生澤を苦しめて、困らせてやりたくなる。 「私は、マノン・レスコーが好き。心に残る話だった」  しゃがみこんで、一番下の棚に手を伸ばす。海外文学の恋愛物。  小学生の頃から変わらず、生澤は私が借りた本を追いかけてくる。だからまた恋愛物を借りれば、生澤も読むだろう。苦い顔をして読む姿を想像し、心の中で笑ってやる。 「また、そこから借りるのかよ」 「恋愛小説のこと?」 「それもあるけど。お前って低い場所にある本ばかり借りるだろ」  生澤が隣にいる時は決まった位置にある本を借りることにしていた。私は立ち上がり、スカートの裾についたほこりを手で払う。そしてからかうように言った。 「高いところにある本を取ろうとしたら手伝う気だった? 私の隣で手を伸ばして、俺の方が身長高いと見せつける?」  見上げる。生澤の表情は揺れていた。何を打っても響かない硬い壁に、小さなひびが入る。この男、動揺している。 「可愛くないな、お前」  白旗のような逃げの言葉を聞いて、私は不思議な感情に浸っていた。ふつふつと湧く液体。粘度は高く、触れてしまえば絡められて、抜けだすことなんてきっとできない。  沼だ。入ってはいけない沼が私を呼んでいる。浸ってしまえば戻れず、生澤も引きずりこんでしまいたくなる。この沼をどう呼べばいいのか、それがわからない。好き嫌いのシンプルな沼じゃなくて、もっと複雑などろどろとしたもの。
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