ファムファタルの沼

16/21

6人が本棚に入れています
本棚に追加
/21ページ
「いつか後悔するんじゃないのか」 「どうかなあ。いまはわからないけど、いつかそういう日がくるのかもしれないね」  執着はしていない。だから処女を失うことに対して生澤ほど恐れていない。  あっけらかんとした私との間に温度差があって、それが混ざり合うのを待つように無言が続いた。聞こえるのは遠くの方で誰かの足音、ページをめくる音。私たち以外は生きているとはっきりわかるのに、欲しい声はなかなか聞こえない。  しばらく経ってから生澤が縋るように言った。 「俺は、お前が好きだから、やめてほしい」  その答えが欲しかった。好きだと、やめろと言われたかった。達成感に笑みを浮かべる。 「いつから? いやがらせをしてきた女を好きになるなんておかしくない?」 「おかしいかもしれない。でも俺は、他のやつが知らないお前を知っている。教室の隅で本を読む小学生、いやがらせをしてくる中学生、ひねくれた高校生も。ぜんぶひっくるめて、お前が好きだ」  体が震える。この青春を受けとめられる青さがあれば、涙をにじませて生澤の手を取っていた。気持ちを明かしてその胸にとびこめば、甘酸っぱい幸せが得られる。  わかっているのに沼がささやくのだ。生澤の傷つく顔が見たい。この男を傷つけて悲しませたい。  空虚で作られていた高校生の沼が枯れていく。私は新しい場所へと住処を移すのだ。そこもまた沼である。以前私が逃げだした、生澤の中にみた沼。そこにあるのは魔性だ。幼い私が気づくことのない女の暗い部分。落ちてどこまでも落ちて、引きずりこんでやりたくなる。その先に破滅があろうが構わない。たくさんの男は無理でもせめてひとりは狂わせてしまいたい。それは生澤がいい。沼底でふたり、嫌悪や愛情を混ぜながら男や女をぐちゃまぜにしたいのだ。  私が生澤を好きだから。ここは魔性の沼。
/21ページ

最初のコメントを投稿しよう!

6人が本棚に入れています
本棚に追加