ファムファタルの沼

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 別れ際、生澤は言っていた。 「もしもお前が処女を売ったとしたら、次に会う時、俺はお前をそういう目でみる」  告げた時の生澤は熱っぽい顔をしていて、この男の言う通りにすれば軽蔑のまなざしを向けられるのだろうか。その疑問を確認する間は与えられず、ぼんやりとした言葉はそのままぼんやりと頭に残った。  おかしなことに生澤の顔は思いだせなかった。蘇るのは声と、図書館の空気。目を開ければ、ここは薄暗い個室。奇妙な音と息づかいが聞こえる。漂う香りに青さはこれっぽっちも残っていなくて、かわりに淀んだ雄のかけらがそこら中に散らばっている。そのかけらを振りまいているのは、私を組み敷く痩せこけた男だった。  手はごつごつとしていたけれど生澤と違って、不健康な骨の手。なんてつまらない時間だろう。もしも私が上に立ったとしても、このひとでは体格が小さすぎるからつまらない。  組み敷かれる屈辱に快感の色は微塵もない。あなたが私に払ったお金は焼肉に消えるよ。そう言ったのなら、私の体を揺さぶる男は、どんな表情をするだろう。私が火だとしたら、この男は肉だ。欲のかたまりを突き刺して火を煽り、男の肉は焦げていく。滑稽だ。踊れ踊れ、金持ち男。  では、生澤を焼いたらどんな味がするのだろう。やはり脱いでもらえればよかった。そうすればいま、生澤の顔も思いだせたかもしれないのに。  肉も炎も痛みを感じるのだと学んだ。だからきっと、私が食べてきた焼肉はおいしかったのだろう。
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