ファムファタルの沼

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「私にいやがらせされたかった?」 「さあな。やられたらやりかえすだけだ。だから、金を払えばいいんだろ?」 「諭吉さんが九人ほど足りないけど」 「いやならいい。でもお前がもしも――」  俺のことを好きなら。紡ごうとした言葉を察知して、塞ぐ。私から身を伸ばして重ねた唇はがさがさと乾いていた。生澤も飢えているのかもしれない。ふわりとそう思った。  掴まれた両肩が痛い。力の強さに男女の差を感じて、沼が疼く。この沼に生澤がきたことを喜んでいるのだ。ふたり飛びこむ衝撃で沼の水が跳ねあがって祝福の雨を降らせている。浴びて浴びて、そうして男も女もわからなくなるぐらいのごちゃまぜに落ちていく。  経験は二回しかないので比較することはできないが、金持ち男が紳士であったのなら生澤は獣だ。奪うような指先。雄の逞しい体。傷跡の残りそうな行為に満点をつけることはできないだろう。でも覆いかぶさっているのが生澤だと思うと満たされていた。ずっと見たかった生澤の体は、私が想像するよりもずっと完成されていた。背中も腕も太腿も、一度見ただけでは足りないほど性的な生き物。  おそらく生澤は、私を見下ろす優越感に浸っている。女は男に抗えない生き物だと思っているのかもしれない。熱を帯びた瞳が細められ、そこに私を捉えても不敵な態度を崩さない。でも違う。たとえ組み敷かれても、私は生澤の上にいる。この沼では女も男も関係ない。引きずりこんだ方が勝ちで引きこまれたら負け。  何度も生澤は「好きだ」とつぶやいた。耳元でささやくそれは切なく、暗闇の中から答えを探す孤独なもの。私は返すべき言葉を持ち合わせていたけれど明かす気はない。いやがらせだ。せいぜいもどかしさに苦しむといい。魔性に狂わされてしまえ。
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