291人が本棚に入れています
本棚に追加
/359ページ
その日、私はほぼ一日中寝ていて、時折目を覚ましては昨日の松永さんの言葉を思い出して涙を流した。
松永さんの温もりを、キスを忘れることなんてできない。
切られたんだから、もう私は別れを告げられたんだから、と考えるけれど余計に涙が止まらなくなってしまう。
泣きながら寝て、何度目かに目を覚ました時、娘がベッドサイドにいて「お父さんが、ご飯できたけど食べられるかって。少しお腹に入れて、お薬飲んだほうがいいよって言ってる」と心配そうに私の顔を覗き込んだ。
私は「…うん、喉も乾いたし、下に行くよ」と答えて起き上がった。
実際、喉がからからに乾いていた。
ベッドサイドのテーブルに目をやると、昼食と思しきうどんの入った丼と水が置いてあった。
…ああ、用意してくれてたんだ。
全然気づかずに寝てしまった。
私が昼食の載ったトレーを持とうとすると、娘が「私が運ぶからいいよ」と言って持ってくれた。
二人で部屋を出て階段を降りてリビングに入る。
「大丈夫か」
私のエプロンをかけた夫が振り返る。
私は笑いだしそうになり、慌てて「うん、だいぶ良くなった」と答えた。
「お父さんのエプロン姿なんてはじめて見た。
草生える」
娘が遠慮なく笑い、夫はむっとしたように「俺用のエプロン買うぞ」と言う。
「えっ、これからも家事するってこと??」
と言いながらキッチンから白菜の山ほど盛ったお皿を持って息子が現れた。
ダイニングテーブルの上には、鍋の材料が所狭しと並べられ、中央には電磁調理器に湯気を立てた鍋が載っていた。
「そのつもりだけど」と夫は短く言って、息子から白菜の皿を受け取り鍋に入れる。
息子と娘は驚いたように顔を見合わせ、黙って食卓に着いた。
私も内心の驚きを隠しつつ、席に着く。
もう、とっくにどこかへ遊びに出ていると思っていた。
夫の中では、今回のことで何かが変わったのかな。
私は夫によそってもらった鱈や春菊を食べながら、私も変わらなくちゃいけないと思い始めていた。
最初のコメントを投稿しよう!