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かつてないことだ。
着ていく服に悩み、遅刻しそうになるとは。むしろ逆だろ? いつもなら、俺の為に相手が苦心すべき場面じゃないか。
などと偉そうな文句を脳内でたれながら、玄関の靴箱を漁っていた。
「あら、出かけるの? お昼いらないのね」
台所から出てきた母を見て、俺は驚きを隠せなかった。掴みかけたスニーカーを取り落すという結果がそれである。
なぜかというと、エプロンをかけた母など最近の記憶にない。伸ばしっぱなしの髪はいつも適当に束ねているのに、今日はうなじが露わになるほどのアップでまとめていた。化粧っけのない瞼にはほのかに光沢があり、唇は品よく艶めいている。
「ご、ごめん。言い忘れてたけど、友達と約束があってさ」
「いいのよ。支度前だもの。それよりデート?」
内心の動揺を抑えつつ、落としたスニーカーに足を突っ込み、紐を縛ることに意識を向けた。何気なさを装って「まぁね」と応えて。
「へぇ。ひょっとして、片想いの相手?」
詰めていた息を密かに吐くと、作り笑いを顔にのせてみせた。
「ま、まぁね。なかなか手強いんだ」
「なら今日は、やっとデートにこぎつけたのね? どれ、見せてみなさい」
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