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 十月、上野公園に秋風が吹き抜ける。  夜半も深い時間、池のほとりに人影が二つ。 「こんなところにいたのか」 「あら、どなたかしら? 私、知らない人に声をかけられて気をよくするほど安い女じゃないのよ?」 「あァ、そうだな。お前は柳橋一の芸妓だもんな」  不忍池のベンチに座る年老いた女性が答え、薄汚れた服にゴム長の老人が力なく笑う。 「蓮の花を見に来たのかしら? この時期はダメよ、フチが茶色に変わり始めてるもの」  ドサっと、老人は女性の隣に腰を下ろした。  老いてなお、女性の背筋はピンと伸びている。  初めてのデートで男が見惚れた時と同じように。四十九年を重ねて平成二十九年になっても。 「忍びじゃねェんだ、お前が忍んでどうすんだよ」  秋の夜、池のほとりとなれば冷え込みは厳しい。  男は羽織っていたジャンバーを脱いで女性の肩にかけた。 「忍、忍べず、不忍の……私、また」  言葉がきっかけになったのか。  女性は目を丸くして??  瞳に絶望の色を浮かべた。  まるで、自分がいまどこにいるかようやく気づいた、かのように。 「ごめんなさい。ごめんなさいあなた、ああ、手がこんなにつめたく、手は板前の命なのに」     
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