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 四月、上野公園は桜の時期だ。  池の向こう、木々の隙間から薄紅色が見えて、それ以上に、満開の桜めあての人々が目に入る。  不忍池(しのばずのいけ)も、空いてるのは湯島側の一角ぐらいだろう。 「これが広小路まで流れてくれればいいのに」  桜を見にきたわけじゃないし、好き好んで人混みに突っ込みたくない。  どうするかな、とりあえず不忍通り側を見てみるか、と遊歩道を歩く。  池のほとりのベンチに一人座るジジイが見えた。  お爺さんでもなく上品なお爺様でもなく。  色あせた薄ピンクのジャンバーにゴム長をはいたジジイが、ベンチに新聞紙を敷いてぼんやり池を眺めている。  すぐそこに満開の桜があるのに、蓮の葉が浮かぶ不忍池を。  華やかな世間の賑わいから取り残されたように見えて。  俺はジジイに声をかけた。 「何を見てるんですか? 蓮は(つぼみ)もまだでしょう?」 「あン? なんだ兄ちゃん、俺ァ何も買わねえぞ?」  べらんめえな、けど明るくハキハキした喋りに驚く。  よく通る声は、俺の耳にすうっと入ってきた。 「押し売りじゃねェんだったら兄ちゃんも座れよ。どうせ俺ァひまだからな」  ジジイがガサガサと新聞紙を広げる。     
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