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ロシア行きは天羽さんの当初の予定からはかなり遅れ、それから三ヶ月後となった。と言うのも、俺はパスポートを持っていなかった。海外に行きたいと思った事もないし、取る理由もなかった。
サーシャの返答も待たずに次の日早速申請に行き、浮かれる俺とは対照的にやはり天羽さんの顔は浮かなくて。その理由が俺とサーシャの妻が遂に対面する事なのだろうけど、本妻と愛人が顔を合わせると言っても俺は男。何より俺にサーシャへの愛はないのだし、普通にしていればバレるはずがない。
それから一週間後、サーシャの快諾を得て正式に渡航する日程を決め、店を休業する事を唯一の従業員の恋人に伝えた。二人も何処かへ行くのなら、早い方がいいだろうし。と言っても不法入国し、不法滞在中のユーリンが行ける場所は限られているけれど。
「え、旅行ですか?」
林さんはそう言うと、頬杖をついてカウンターの端でユーリンと中国語で談笑する天羽さんをちらりと見やった。
「異国の地かあ。燃えますね」
「林さんのそう言う安易なとこ、嫌いじゃないけど」
グラスを磨きながら、俺はちいさく嗤った。
「俺と天羽さんはそう言う関係じゃないから」
「え?付き合っている訳じゃ……」
「ない」
ずっとそう思っていたのか、林さんはあからさまに驚いている。
「へえ……そうなんですか。てっきり」
俺が天羽さんの事を好きだと隠せていないのだから、仕方がないのかも知れないが。
「どちらへ?」
「ロシアです。俺も海外は初めてだから、少し緊張します」
「大丈夫ですよ、天羽さんいるんだし。楽しい旅になるといいですね」
林さんの言葉に微笑んで、俺は思考を遥か異国に飛ばした。
天羽さんが生まれ育ち、そして癒えない傷や償えぬ罪を背負った国。一体どんな所なのだろう。不安とともに、期待が胸を優しく叩いていた。
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