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雨が降っていた。遠くで低く高く響く彼らの声が聞こえて目を覚ますと、窓の外から湿った匂いが鼻を突いた。しとしとと、柔らかい音がする。紅(こう)鏡(けい)・ティーダ・オルフェウスは急いで布団を跳ね枕元に置いていたものを掴んでから部屋を飛び出して、渡り廊下を走って母屋に向かった。
渡り廊下は、幅が狭く、まるで母屋に向かうまいとさせているようだといつも思っていたが、懸命に走っているうちに前を見るのがおろそかになって壁のようなものに当たって跳ね返った。尻もちをついて見上げると、そこに祖父が立っていた。
「紅鏡」
夜中だと言うのに着物を一寸の狂いなく着こんだ祖父は、紅鏡に手を差し伸べることもなく、道端の石ころでもみるように無感情に見下ろしてきた。
「おじいさま」
「何処に行く。また、お前は橙の元に行くのか?」
うっすらと目を細めると、祖父の顔に刻まれた皺が影を帯びてより一層、表情が無くなり人形の置物のようだった。紅鏡は、頷きながらゆっくりと立ち上がる。咄嗟に、掴んでいたものを後ろ手に隠した。
「雨は雷を呼びます。橙は、雷を嫌うので」
「……雨が雷を呼ぶのではない」
祖父は、まるで興味がなくなったと言う様に背中を向けて遠ざかる。
「雷が雨を呼ぶのだ」
きしりきしりと廊下が鳴って、背中が遠ざかったと思ったら、ぴしゃんと戸を締められる。皆が住んでいる、母屋の戸だ。ただ一人、離れで暮らしている紅鏡はその扉が閉まる音がいつも苦手だった。肩をびくりと震わせた後、息を殺す様に戸の前を通り過ぎて、母屋の縁側から通じる中庭に足を下す。靴は縁側の下に隠しているので、それをそっと取り出して突っ掛ける様に履いた後またすぐさま走り出した。
藍や黄、黄金に赤、それから緑と白に桃と菫と色とりどりの花びらが紅鏡の顔の前を通り過ぎる。垂れてくる藤を避けながら、顔を撫でるシダの葉を手で払い、バラの棘が顔を傷つけるのもためらわず進めば、そこに巨大な球型のドームが現れる。
「橙! 浅黄!」
ドームの前で叫ぶと、きゅうとうさぎでも鳴いたような声がして、ドームの中から鱗の擦れる音がする。迷わずドームに足を踏み入れると、急に頬に冷たい感触がする。ぴちゃりと通り過ぎて、長細い鞭のような感触のものが唇をふよりと通り過ぎた。舐めあげられて、髭で顔を探られたのだ。
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