―――『ある老夫婦のお話』―――

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彼は彼女の方を見ることはせず、ただじっと一点を見つめながらそう答えた。彼なりの精いっぱいの言葉だった。  「そこは、そんなことないさ。と否定したり、君がいなくなるのが悲しい、と涙を見せたりはしてくれないの?」  彼女はいたずらな微笑を浮かべる。しかし、彼の表情は崩れることなくまた一点を眺めたまま答えた。  「涙を見せないのは君との約束じゃないか。それにこんな大人になって、言ってしまえばこんな爺さんになって人前では泣けんさ。」  人々は彼らの後ろを過ぎ去っていく。それは止まることのない時間の流れのように。そして桜の花びらは少しずつ散っていく。彼らに残された時間を表すように。  しばらくして彼が彼女の正面に回り、  「もう日も暮れてきた。体も冷えるしそろそろ病室に帰らないか?」  と、腰を低くして言う。彼女もそれに答え「はい。」と力弱く返事をした。そして彼がまた車いすを動かすため立ち上がろうとした時に彼女はそっとまた口を開いた。  「あなたは、私と一緒にいられてよかったですか?私はあなたと人生を共に出来てよかった。ありがとう。」  彼女がそっと微笑むと彼は限界だった。人目もはばからず泣いた。声を押し殺しながら泣いた。そして彼女のことを抱きしめた。  「最後まで約束を守れず、すまない。俺は弱い人間なんだ。だからお前を失うのは本当につらい。愛している。」  「私も、もう少しあなたと同じ景色を見ていたかった。愛しています。これまでも。そして、ずっとこれからも。」  二人はお互いの愛を確かめ合うように抱き合った。そして、涙した。  そうして少しずつ夕日は地平線へ溶け込んでいった。
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