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崩れた
夫は、とても優しい人だ。
夫となる人と私の出会いというものは友人の紹介だ。それは長らく独り身で諦め半分な気持ちで仕事に邁進していた私に降って湧いた話だった。期待などはしていなかったが暇つぶし程度の興味で、友人がホストを務める食事会に顔を出した。そして出会ったのが前評判通りのいい人である夫だった。
彼は常に誰かのグラスが空いてないか気を配っていた。私や友人に嫌いなものやアレルギーの有無をさりげなく聴取しては率先して料理を皿に取り分けた。初対面特有の緊張感にまけまいと頑張って浮かべる笑顔、自分がそんな表情であるのに、彼は相手のそれを少しでも和らげようと会話を広げる努力をしてくれていた。
ああ、このひとは人のために努力ができる人なんだな、というのがその時の私の感想だった。対する彼は私に対してどのような感想を抱いたのか、知りようもないけれど、それからの私たちの関係を鑑みるにどうやら好印象を持ってくれたようだった。
その日からしばらく、食事会での同席者という関係から始まったこの縁をどうしようという議題を話し合った。そのためにデートという名の検討会を再三繰り広げた。知り合いという関係を経て、友人となるか、お付き合いをするか、それとも赤の他人になるか。私たちには三つの選択肢が道となって示されていた。
そして二人で選択したのはこれから先、将来を共に歩むことを前提としたお付き合いだった。
こうして始まった関係で、彼はお互いを尊重することを重視していたように思う。彼が私を呼ぶときは苗字にさん付けであるし、二人で会話するときは他人行儀な敬語でのやり取り。はたから見れば、私たちはただの職場の同僚に見えただろう。それが入籍するという区切りを経るまで続いたのだ。彼は、優しいだけではなくとても慎重な人物であったのだ。連絡の仕方一つでも、贈り物をする時でも、何事も馬鹿が付くくらい丁寧なのだ。
女性とは、触れれば崩れてしまう砂で出来た薔薇のようなもの。取り扱いには要注意。そう躾けられたのだと言われれば、誰もがああなる程とすんなり人柄について納得しただろう。
恋仲となり、その結果変わったことといえば、必ず毎週会うようになったことと会う時に軽いハグと掠れるようなキスを交わすようになったこと。
外食などのなにかしらの会計は割り勘。一緒にいる時の家事もほぼ対等でわたしがご飯を作れば彼が食器を洗う。わたしがリビングの掃除機をかければ、彼は水回りの掃除をする。やじろべえのように傾き過ぎたとしても、彼はわたしを尊重しながらバランスをとる。
決して交わらないよう平行な生活をしているかのごとく、女性には負担をかけず、平等であることが彼の信条であると、言葉に出さずとも彼はそれを意識しているのだろうとわたしは理解していた。
結婚前彼に対して不満というものは終ぞ持ち合わせることなどなかった。彼の努力のおかげで、わたしたちの関係は平和そのものだった。彼と出会う前、仕事こそが生涯のパートナーであると断言していた独身時代は、結婚することなど露ほども考えたことなかったわたしであったが、この平穏な生活を気に入っていることを自覚したことが決まり手であったようなものだ。
そして迎えた、彼の一世一代の大舞台、先の段階へと進むためのプロポーズ。それも、愛している、俺があなたを幸せにしてみせる、だから付いてきてくれ、という気概を見せてくれたわけではなかった。怯えているわけではなかったのだろうが、私のことを尊重しすぎな彼がおどおどと子犬のような声音で何とか絞り出したのは、できればこのまま一緒に隣を歩いてくれませんかというお誘いだった。私は彼を尊重して、返事をするために穏やかに笑った。
はいと答え、受け取った指輪という拘束具を填めた。
私たちの結婚生活は、亀の歩み程度の勢いで始まる徒競走のようなものだった。その助走は亀の歩みのごとく。互いのことを尊重するという建前の元、疾走感など見当たらない徒競走だ。
古くから色恋は人の行動を変えるほどのエネルギーを、熱情を生み出すものだったはず。ロミオとジュリエットのような命をかけ、自分たちのみならず周囲の運命をも変えるほどの燃え上がる恋。その先にあるのが結婚という運命共同体を形成する社会的行為。
それはただの理想論で、机上論。机の上でいくら捏ねまわしても粘土は粘土。いくら精巧に仕上げても造形物はただの飾り。ドラマティックな恋愛結婚は、見て楽しむもの。
自分の結婚する様に現実を見せつけられ、足元だけを照らす手提灯のように未来の可能性が狭まっていることに気がつきながらも無視をした。
この人ほど優しい人はいない。一緒になるのが幸せになる方法だ。私の思考はその一点にのみ集中して狭窄していった。
新生活の高揚感など知らないままに始まった、ただただ優しい夫との日常。二人で積み上げた時間が齎すものは平和な人生。
夫と結婚して、手に入れた穏やかさ。私は幸せだった。
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