第1章

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「消せそうなものが近くに見当たらなかったからね。このテーブルも気に入っているし。次から、石でも置いておくよ」 「今回は気分で吸ってみただけよ。次は多分吸ってないわ。おいしくないもの」 「ははっ、君らしいね。そろそろ寝ようか?」  気づけば、互いの顔を隔てる黄昏時の影が、二人の距離を静かに離していた。  微かに見える相手の鼻先と、かすかな光を映す目だけが互いの存在を相手に知らせている。  暗い影の中で海野は小さく息をつき、足を組み替えた。 「そうね。何もできそうにないもの」 「健康的でいいと思うよ」  佐竹の影が立ち上がって背を向け、ふと思い出したように首だけで振り返る。 「ところで、今回はお相手しようか?」 「あら、珍しい。二十年も経つと、色々溜まるのかしら?」 「どうだろうね。寝床を新調したからかも。ほら」  佐竹に手を引かれて寝床の表面に手を滑らせる。予想していたような植物のざらつきはなく、さらりとした表面は手触りがいい。 「植物を織っただけだけど、多少はムードも出るだろうからね」 「……あなた、そんなに暇なの?」 「まあね。仙人は時間だけはあるんだよ」 「そう。うらやましいわ」  あきれたように言って海野はブラウスのボタンへ指をかける。 「本当に……羨ましい」  誰にともなくささやかれた声は、暗い室内で吸い込まれて静かに消えていった。 「やあ、十九年ぶりかな?」 「ええ、十九年、三か月と十四日ね」  答えて立ち上がろうとした海野は、顔をしかめてうずくまった。  佐竹は木の枝を切り落としただけの、奇妙に捻じれた棍棒を落ち葉の積もった地面に置き、彼女の横に膝をついた。 「折れてはいないみたいだけど、足を挫いたかな?」 「ええ、でもそれだけで済んだわ」  海野はすぐ傍らに転がっているイノシシの死体に目をやった。  大きく丸々とした体は、冬に向けて脂肪をため込んでいることがよく分かる。  一緒にいた子供は母親の死体のそばで、それぞれ動かなくなった母の匂いを嗅いで回っている。 「たまたま通りかかって、よかったよ」 「お礼を言ったほうがいいかしら?」 「いいよ。冬に向けた備えが進んだからね」  佐竹は海野の腰に手を回し、抱え上げた。小屋までの五分ほどの距離を、横抱きのままいつもより軽い体を運んでいく。  海野をベッドの上へ座らせ、佐竹は「血抜きをしてくる」とだけ言って小屋を出ていった。
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