第1章

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「そうね。どうしようかしら。この足だと、とても無事に山を下りられるとは思えないわ」 「それなら、少し長く泊まっていけば? 死にたくなるまで」 「死にたくないのに、ここに来ているように聞こえるけど?」  海野は不満げに眉をひそめて、近づいてきた佐竹に目を向けた。 「環境が変われば、心情も変わるかもしれないだろ?」 「……そうね。たまには、いいかもね」  窓の外を見たまま言う海野を視線の隅に置いたまま、木を削った椀を二つ持ち上げる。 「それじゃあ、君の分の食事も用意しようか。ごちそうを用意するよ」 「おはよう。今日は早起きだね」 「そうかしら? 今はいつ頃?」 「まだ日が昇ってから、あまり経ってないよ。水を汲んできただけだからね」  桶を置いたらしい音を部屋の隅に聞いて、海野は首を巡らせた。 「外は随分温かくなったよ。もう、本格的に春だね」  佐竹はベッドに近づき、椅子を引き寄せた。年季の入った椅子が、彼の重みに軋みを上げる。 「今日は、調子が良さそうだね」 「どうかしら。若いころと比べたら、いつも調子が悪いわ」 「それは仕方ないよ。若くないんだから」 「あなたに言われると、頭にくるわね」  肩をすくめる佐竹にため息をついて、彼女は視線を逸らした。 「年を取るまで生きていたことなんて、今までなかったけど。こんなにひどいものだとは思わなかったわ」 「ふーん。そんなものかな?」 「ええ、あなたには分からないでしょうけどね」  海野は何年経っても変わらない顔で自分を見下ろしている佐竹に、小さくため息を吐いた。  あれから六十年経っても、佐竹は当然のように変わっていない。二十代半ばの外見のまま、老いた海野を見下ろしていた。  海野は自分の手を持ち上げて、朝日にかざしてみる。  皮膚はたるみ、ざらついて、指を曲げる度に油が切れているように関節が軋む。爪は木の皮のような色に変わり、あまり伸びなくなった。掌は荒れて、手相よりも皴が深く刻まれている。  もう一度海野がため息をついたとき、佐竹がそっと彼女の手をとった。  手の甲を上にして、皮をそっとつまんで引っ張る。 「君の手にも、富士山が立つようになったね」 「あなた、子供なの? まったく……」  笑う佐竹から手を取り返して、海野は手の甲で立ち上がった『富士山』を見下ろした。 「君も、長生きしたってことだね」 「あなたは、いつまでも子供のままね」
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