第1章

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「私に言わせたいの? まだちゃんと、未経験よ」  小さく笑う吐息が、海野のまつげをくすぐる。 「君の『初めて』は、もう5回ももらったよ。それに――」  海野の頬を撫でた指が、産毛を寝かせてゆっくりと首筋へ通り抜けた。 「私に少女趣味はないよ。最後の夜なんだから、ゆっくりおやすみ」 「お帰り。二十五年ぶりくらいかな?」 「ええ。二十四年と八か月、三日ね」 「今度は、なんで来たんだい?」 「何でもないわ。いつもと同じよ。下らない生き方に飽きたわ」  海野は垂れてきた髪を耳にかけた。  佐竹は一歩下がって海野の体に沿って視線を動かす。浮世に疎い彼から見ても、それは非常に上質なものに見えた。いつもより丸みを帯びた海野の体も、標準の体形に見せている。 「随分いい身なりに見えるけど」 「お金があるからって、幸せとは限らないのよ」 「一度は言ってみたいけど、言われると感じの悪いセリフだね」  あきれたように言って、佐竹は肩をすくめた。 「あなたは好きでそうしているじゃない」 「まあ、半分はね」  海野は背負っていたリュックサックをテーブルの上に置いて、椅子を引いて腰かけた。  寄ってきた蚊を叩き潰して、足を組む。 「よくまあ、そんな履物でここに来たね」 「ご令嬢は抜け出すのも大変なのよ」  海野は小さくため息をついて、背負ってきた大きめのリュックサックのファスナーを開いた。これだけは、彼女が途中に買ったものだった。  無造作に中身を取り出し、ぐらつくテーブルの上に落ちないように並べていく。 「今回は随分大荷物だね」 「お土産よ。しばらくの間は、多少ましな生活ができるでしょう」 「へえ、ありがとう。少し見ないうちに、知らない道具が増えたね」  百円ライターを一つ手に取って火をつけた。彼が最後に見たライターはもっとしっかりとした金属製で、透明でもカラフルでもなかった。 「この液体が燃料なのか。しばらくは火をつけるのが楽になるな。この時期は台風も多くて中々思うようにいかないから、助かるよ」  海野のお土産を一つずつ手に取って確かめながら、佐竹は丁寧に礼を言った。 「それで、今日はどうする? まだ日も高いけど、泊っていく?」 「そうね。年を取ったせいか、最近動くのが億劫なのよ」  足を組んだまま、皮靴の底を爪で弾く。縁にへばりついたまま乾いた泥が、床板の間にぱらぱらと落ちた。
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