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「マエストロ、何か」
コンサートマスターのマツイが恐る恐る声をかけた。 マツイが恐れるのは他にも理由がある。
ベルリンの壁崩壊後、資本主義各国のありとあらゆるトップオーケストラのマネージャーやらプロモーターやらが「神」の元に押し掛け、その熱いラブコールに応えて伝説級の演奏会がいくつか実現した。
だが、その数はそう多くない。「共演はまるでサバイバルゲーム」と言われるほどの彼の厳格さや気むずかしさもまた世界一であったためだ。リハーサルはたえず銃弾の飛び交う最前線の塹壕内さながらの異様な緊張感に包まれて、「『きらきら星変奏曲』ですら難解すぎる」「デジタルチューナーやメトロノームですら逃げ出す」と陰口を叩かれるほどの独特の楽曲解釈と人間業を超えた正確性を要求しては一切の妥協を許さない姿勢に奏者は悩まされた。
楽団員の半分以上が精神疾患や胃潰瘍を患い公演中止に追い込まれるのはまだいい方で、いくつかの名門オーケストラはついに活動休止や解散となった。二の舞では元も子もない。
クラッシャーレベルの巨匠、マエストロ・ベルクマンは指揮台の上に用意された椅子に不機嫌に座り込んだままマツイの問いかけにも答えようとしない。
数分の後、彼が重い口をやっと開いた。
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